春のうららかさを感じよう

波乱とドラマに満ちた生涯ー鄭周永

解放後「現代建設」から「丹陽セメント」へ

1944年、父の還暦を迎えたが健康が思わしくなく、祝いを延期することにした。翌年、家族は皆ソウルに住んでいたが、解放を迎えて父の還暦祝いを故郷の通川ですることにした。当時の38度線はまだ、かなり自由に往来できたのである。故郷で三日間、盛大に宴席を設けが、ソ連軍の進駐が始まり統制が厳しくなったので、家族とともに山路をたどり、やっとの思いでソウルにたどり着くことができた。

1946年、米軍政庁が日本人財産の一部を払い下げしたとき、彼はすばやく中区草洞の土地200坪を入手し、そこに「現代自動車工業社」の看板を掲げ、修理工場をはじめた。ベテラン技師の金永柱は妹と結婚したし、弟の順永、故郷の友人呉仁輔など10名ほどの人員であった。仕事は主に官庁や米軍の仕事であったが、力を合わせてがむしゃらに働き、繁盛した。これが「現代」という名前の始まりとなった。

鄭周永はこれで満足せず、土木建設業では巨額の金が動くことを知り、この分野にも手をだしていった。当時の建設業は大手15社の外に中小の約3千業者があった。大規模工事は大手が独占し、それを中小業者に下請けさせる形態であった。

1947年5月、彼は「やれば、できる」の信念のもと「現代自動車工業所」の看板の横に「現代土建社」の看板を付け加えた。この会社は仁川、太田などの米軍宿舎や部隊施設の建設、改修工事などを引き受けた。その収益は莫大で彼は手ごたえを感じていた。

1948年に韓国政府が成立し、1950年に政府は国家再建のための建設行政を整備する方針を打ち出した。この方面に国家予算が投入されるというので、彼はこれに対応して二つの会社を合併し、「現代建設株式会社」を設立した。資本金も大幅に拡大し、所在地もソウル中区筆洞に置いた。

「よし、やるぞ」と意慾を燃やしている矢先、朝鮮戦争が勃発した。鄭周永は弟の仁永とやっとソウルを脱出して釜山にたどり着いた。弟の仁永は『東亜日報』の記者をしていたが、米軍司令部の通訳募集の広告を目にして訪ね、運良く採用される。「どの部署に行きたいか」と問われ、兄の土建業が頭に浮かび、仕事を回してくれそうな工兵隊を選ぶことにした。こうして弟は工兵隊中尉の通訳となった。

その中尉から「良い建設業者を探して来い」と言われたので、弟は兄を連れてくる。中尉が「君はどんな仕事ができるのか」の質問に、鄭周永は自信満々の表情で答える。「何でも出来ます.やらせて下さい」。そして最初の仕事が上陸した米軍兵士10万人分の仮設宿舎を作ることであった。

こうして彼は不眠不休で仮設宿舎の建設をはじめた。休校中の教室を利用し、ペンキを塗り、床に厚版を敷き、その上にテントを張って宿舎とするのである。一ヶ月後には大金が入ってきた。建設の仕事は山ほどあった。米軍がソウルを奪還すると鄭周永は米軍の車に乗ってソウルにむかった。

彼はソウルに到着すると、まず焼け残ったソウル大学の校舎を改造して、米軍の前方司令部を設営した。彼は引きつづき米軍の仕事を請け負った。ソウルに残った家族たちも幸いに無事で再会を喜んだ。家族の記憶では、髭だらけの鄭兄弟が米軍車から降りてくるやカバンを開いて「これを見ろ、金だ。金を稼いできたぞ!」と叫んだという。

再びソウルが北側に占領されるや、鄭一家と従業員は釜山まで下り、次々とやって来る仕事をこなした。米軍が再びソウルを奪還するや、鄭周永の仕事も増えた。「現代建設」は、米軍が発注する工事のほとんどを独占していたのである。その後「現代建設」は漢江歩道橋工事もやり遂げ、大きな発展の契機をつかんだ。

停戦協定が結ばれるや、今度は駐韓米軍のための半永久的な軍事施設の工事が始まった。戦中の緊急工事とは異なり、仕様書には厳しい装備条項(工事に使用する機材の指定)が必要であった。彼は新たに「重機修理事務所」を設置し、購入した機材の修理、組み立て、新しい機械の製造など行い、ライバル企業に先んじた機械装備を整えた。これがまた、「現代建設」の成長に役だった。

米軍の発注工事は、ただ最低入札金額を提出するだけの政府の最低落札制度とは異なり、一つ一つの内訳についての見積書も詳しく提出するようになっていた。英語も喋る人材もいない状況の中で、烏山飛行場の滑走路工事、仁川第一ドック復旧工事などを引き受け、真摯な姿勢で米人技術者から学ぶものはすべて学ぶという心構えで、多くのものを吸収していった。その後、すべての設計を米国式仕様によって作成し、品質管理を厳格にすることによって、さらに信用をうることになった。

鄭周永は、毎週日曜日には現場に出向き、少しでも手抜きしているのを見つけるとその場で雷を落とした。そのため社員から「ホランイ(虎)」とあだ名された。彼は徹底した確認と訓練、督励が今日の「現代」を築きあげたといっている。そして、現場で彼の訓練を受けた者は、どんな仕事でも誰よりも徹底して完全にやり遂げる能力と責任感をもつ「本物の仕事人間」、人材に育成したゆえに、「彼らはどんなポストに就けても安心してまかせることができるのだ」と彼は断言する。

彼はこのようなやり方で、新しい分野の仕事を開拓しようとしていた。当時韓国では「建設工事のコメ」といわれたセメントが不足しており、そのため工事の時間と行動に制約されることが多かった。これを自社で解決しようというのである。

1958年、忠清北道丹陽郡の石灰石鉱山を買収し、会社に「セメント事業計画部」を設置し、企画、調査,対政府交渉に当たらせた。当面、年産20万トンの計画をたて、商工部に開発借款基金の資金の申請を提出した。この申請は紆余曲折を経て1962年7月、425万ドルの借款を受けることになった。

鄭周永は「丹陽セメント工場」建設を始めた。彼はここでも現場主義を貫き、日曜日は勿論、時間の許すかぎり現場に赴いた。「現場の男」の異名のとおり、彼は準備段階から完成まで直接指揮した。セメント工場の建設は社員から「現代建設の3・1運動」と呼ばれほど画期的な事業であったが、その結果、予定工期を6ヶ月短縮して、1964年6月に竣工した。

「丹陽セメント」の稼動生産開始は韓国のセメント供給不足を解消した。国内の建設現場全体に活気が戻ったといわれる。同時に「現代」のプラント建設の比重を高める結果ももたらした。1970年、「現代セメント株式会社」となったが、その「ホランイ(虎)」印セメントは最優秀企業として上昇をつづけている。

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1 COMMENT

ブタ🐷も欲しいよね~

一代で財を成した代表格ですね~👍
当時、このニュースを見てた私は、わくわくして小躍りした記憶がある~😊
良いな~カッコいいな~ こんな人生を歩みたいな~と😊
で、その後 牛たちはどうしているんだろうか? バリバリ働いてくれれば良いんだけど~🐄

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