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俺の介護日誌ー⑯ 別れの日

アボジは小学校を卒業して勉学のため一人で渡ってきたので、日本にはアボジのほかに親戚は一人もいない。オモニは7人兄弟の長女だが、帰国船が開かれると、ハルモニと弟と妹たちはオモニを残し全員で帰国した。オモニはちょうど私を身ごもっていたので、兄弟たちが北朝鮮で生活の基盤をしっかり築いた後に、私たちの家族を呼び寄せるつもりだったらしい。

しばらくして北に帰った兄弟たちから送られてきた手紙には「日本で苦労しても絶対北には帰ってくるな」という手紙だった。そして日本にはアボジとオモニ、そして私たち兄弟だけの6人だけになった。

オモニは口癖のように、あの時兄弟たちが帰国していなければ、協力し合ってもっと良い生活ができたのに…と、北に帰国した兄弟たちを思っては泣いていた。でも、人生は悔やんでも後戻りはできない。 


告別式は、オモニの生前のビデオを流し、喪主である兄が挨拶をした。

私のオモニは、この地域では同胞からずいぶん人気がありました…。昔から料理が上手で、私は学校の運動会で持ってきてくれるオモニの料理が自慢でした…。そして裁縫も上手かった。あまり新しい洋服を買ってもらった記憶は無いけれど…、破れたズボンなどを直してくれたことを今でも覚えています…。

いつもオモニの料理が美味しくて…、私の姉たちがみんな料理上手で裁縫も得意なのは、きっとオモニの遺伝子が受け継がれているのだと思います…。

葬儀の間は10日もあったので、この間オモニの思い出話や昔のあった出来事を思い出すことができました。オモニの遺体と接しながら…オモニの事を思い出しました。

若い頃のオモニはすごく怖くて、キツイ人でした。7人兄弟の長女で、食べることもできず…苦労したと思います。弟や妹がいて、小学校は入学したけれど小学校は卒業しなかったんです…。そんな苦労したオモニでしたが、そんなオモニが変わったのはお店をやり始めてからかも知れません…。

娘たちが結婚し…、家庭を持ち…立派に成長したと思ったのでしょうか、晩年はとっても優しいオモニになったんじゃ無いかと思います。優しいオモニでした…、感謝しています。

家にとっては初めての葬式になりますけど…、みんなが遊びに来た時も「ご飯食べた?」「食べて帰りなさい」といっては、アボジの食事を毎日気にしていました。今日でオモニとはお別れですが…、何かの機会に思い出してください。

人の前では涙を見せない兄の涙を見るのは、子供の時以来かもしれない。兄弟みんなアボジやオモニの遺伝子を受け継いでいるが、兄が思うオモニの気持ちは私とは少し違うのかなと思った 。

オボジは葬儀場に家族たちが全員集まったことがよほど嬉しかったのか「ありがとう、ありがとう」と感謝を述べている。

告別式が終わり、遺体は火葬され、遺骨になったオモニを抱え自宅へと帰った。夕食後、遺骨になったオモニを見てアボジが 一言つぶやいた
「オモニが亡くなってからもう何年になるんだ?」

悲しみの中に笑いがこぼれた。


この間、大勢の同級生の皆さんから励ましのメールやお悔やみの言葉をいただき本当にありがとうございました。同窓会が迫る中で、いろんなことを考えました。

同級生の中には、もう20年も義父の世話している同級生もいれば、この5年間、生死を彷徨う病魔と戦っている同級生もいます。突然体調を崩して今回参加できない同級生も少なからずいます。あらためて人の生死は一寸先はわからないということを思いました。

今を大切に、会いたい時に会える場を持つことは本当に大切だと思います。まだまだ同窓会までの出欠の時間には余裕があります。

同窓会にたくさんの参加者が募ることを願ってます。

3 COMMENTS

ご苦労様。

子ども達が親より先に死ななかった事がオモニンにとっては喜びだったと思います。改めて合掌いたします。

いたく同感します💕

立派なオモニだったのですね👀だから投稿者さんも立派なのですね👀
いつかゆっくり話をしたいです💕
東天紅では、時間が無いと思うので

ポドゥナム通り

在日一世の人生は、まさに小説、いやそれ以上に激動の人生ですね。そしてこの様な話の中で出てくる帰国事業、あまり良い話は聞きません。2019、11、9の東天紅でも帰国した同級生のメッセージが届いていましたが彼らが日本に留まっていたらと考えると気が重くなります。複雑な理由があるのでしょうが…。何か納得出来ないです。投稿者さんのアボジ、オモニも北に帰国した兄弟たちの事が精神的経済的な重荷になっていたでしょうね。本当に大変な人生を歩まれて来られたんですね。それでも人生は続くし、とりあえず進むしか無いのかな〜。

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