写真で見る在日①-日本への渡航

1905年9月、山陽汽船による関釜連絡船(釜山一下関)が就航した。ほかにも済州一大阪間、麗水一下関間、釜山一博多間などの航路がつくられた。これらの連絡船を利用し、1920年代後半から30年代にかけて、毎年8〜15万の朝鮮の同胞たちが日本に渡航した。なぜこれほど多くの人が日本をめざしたのだろうか。

下関港に接岸している連絡船(1930年頃)

当時、朝鮮では朝鮮総督府による強権的な土地調査事業(1910〜1918年)が進行し、土地を奪われた農民の不本意な離農現象が起きた。その後の産米増殖計画(1920年)は農民をさらなる借金地獄に追い込んだ。

渡航調査の看板を付した建物
大阪筑港の上陸風景(1920年代)

日本は第一次世界大戦後の好況で産業界は安価な労働力を求めていた。日本に行けば日銭が入るという噂につられ、海を渡る者が激増した。

大阪築港の上陸風景(1927年)

「1日平均1700名」を乗せた4隻の連絡船は常に満員の姿を呈し、定期船のみをもってしては到底収容しつくせぬ状態となった。

釜山港で渡航説明をする指導員
「渡航者心得」を聞く民衆

渡航には釜山水上警察での厳しい検問があり、旅費以外に10円以上を所持し、日本語がわかり就職先の確実な者のみが渡航を許されたが、1930年には40万人に達した。

釜山水上警察署
下関での上陸風景

1930年代後半、戦争の激化にともない炭鉱や鉱山、土木工事に強制的に動員される人が激増した。当時の各会社の労務担当や総督府の役人は、労働者の「割当供出」、「日本への連送」と呼んでいた。その人員は75万とも100万ともいわれている。

3 COMMENTS

チャジョンゴケイジュ

大変な時代でしたね~😢
アボジやオモニから「君が代丸」の話は聞いたことがありました~「クンデワン」💦
この写真の中に、我々のハラボジやハルモニも混ざっていると思うと、感慨深い😞
そして、散々働かされて、一儲けした在日も居て、「帰国事業」で、バイクに乗って新潟から祖国へ帰って行ったんですね~😢 我々は残りましたけど~

륙짓놈アボジがよく言っていた言葉

私の故郷は済州島。
韓国・済州島「アカ狩り」3万人無差別虐殺
済州島4・3事件勃発
2006年当時だった노무현大統領が初めて国家を代表して犠牲者が眠る慰霊碑に謝罪
私の父は当時日本にいて無事でしたが、多くの友、知人を亡くしました。
済州島ヨンサン事件で検索したら、
詳しく出ています。

匿名と言う名の匿名

今日本のいわゆる歴史修正主義者達が口を尖らせて言っている事が「強制連行はなかった」です。
日帝の初期は成程、自発的に日本に来た人も多かったでしょう(でも、元を正せば日本が土地を没収したからです)ただ、戦争が激化するに連れ募集だけでは追いつかなくなって、騙したり、拉致したりして労働力を確保したんです。終戦間近はそれこそ殴ってでも連れて来たと言う話しも聞きました。それが私達の祖父母やアボジ、オモニの世代だと言う事。
時代が流れても、我等が決して忘れてはいけない歴史です。

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