春のうららかさを感じよう

サムスンの経営を再建した二代目ー李健熙

変わらなければ死なねばならぬ

李健煕は、1987年の会長就任からの5年間を「第二の創業」のための修練と準備を中心とした第一期とするならば、それに続く5年間は第二期であり、実践と成果をあげることが重要だと強調した。彼は1993年1月から8月まで、アメリカ、日本、ドイツ等158日間におよぶ海外出張をこなしながら、グループ各社社長たちとの会議も欠かすことなく、まさに超人的な一年間であった。

彼はサムスンの将来を見据え、必要な事業と不必要な事業を区分した。

これによって今日の電子、金融と化学、重工業など、三つの事業分野に再編されたサムスングループの全体像が姿を現わして来た。

また、サムスンは1993年の初めから、人材の確保と育成について大きな関心を示している。その理由として、第一に、21世紀において、技術的に自立できない企業は存続不可能である。その対策として、まず研究開発費を1兆1000億ウォンから3%以上増加することにした。当時の韓国の研究開発投資は国民総生産の3%に過ぎず、これはアメリカの30分の1、日本の20分の1であった。

この過程で、韓国は技術植民地に転落し、カラーテレビ1台生産するたびに7,8ウォンの技術料を、携帯電話の場合は160ウォンを、ワクチンの場合は780ウォンを、16メガビットDRAMの場合は10万ウォンのロイヤルティを支払わねばならなかった。

つまり製品を作れば作るほど、外国企業を潤す結果となるのである。

第二には、ハードウェアの製造よりも、ソフトウェアの開発が切実であるから、人材の確保と育成が重要となる。これを彼は、「一人の天才が10万~20万人を養うのだ」と表現する。

彼の危機感は「妻と子供以外はすべて変えよう」というスローガンとなったのである。

ロスアンゼルス会議

1993年1月31日、李健煕はロサンゼルスを訪れた。アメリカの主な取引先と支社をまわり、市場の現状を把握するためであった。そして秘書チーム長に指示してサムスン電子の社長をはじめサムスングループの電子系企業の役員23名を国から呼び集め、彼らと共に家電製品売り場を訪問したのである。

売り場にはGEやフィリップス、ソニーなど世界一流企業の商品が並べられ、その性能とデザインを競っていた。しかし、サムスンの製品は、ほこりをかぶったまま、売り場の片隅に放置されていたのである。

彼らは、その光景を見てショックを受けた。韓国で一流を誇っていたサムスンが、世界市場では冷遇されているのだ。その場にいた全員が沈痛な表情にならざるをえなかった。

2月18日、ロサンゼルスのホテルで「電子部門輸出品現地品評会」が4日間の日程で開かれた。ライバル企業の製品と自社の製品を並べ、性能やデザインなどを比較するのである。世界のビデオカメラ、テレビ、冷蔵庫、VTRなど、78品目の家電が比較展示された。

サムスン電子の製品は、世界の一流製品に比べ、性能やデザインで劣っていることがはっきりと解った。

論議の途中、ついに李健煕が口を開いた。

「アメリカは世界最大の市場である。ここでの成果は、生き残りに直結する。アメリカでわが社の製品が冷遇されている。この状況でサムスンが21世紀に生き残れると思うのか?」「私はすでに15年前から危機を感じてきた。今は、すでに生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。ナンバー2の精神を捨てろ。世界一でなければ、今後生き残ることはできない!」「今後の2~3年が世界の一軍、一流国、一流グループに入ることができる最後のチャンスだ。私が背水の陣で改革を追っているのも、一流入りを果たすためなのだ。」

李健煕の叱責は9時間も続いた。彼はサムスンの病巣を指摘し、本格的な意識改革にとりかかった。

1993年3月、李健煕は東京にグループの社長46人を招集した。会議の前に役員たちは家電の生産現場や秋葉原を視察した。ここでもサムスン製品は日本製品の後ろに、こんな安い製品もあるよと並べられていた。

東京会議は、現場見学とショック療法を採り入れた現場学習となった。

東京会議は7月にも開かれた。この度は役員100人が参加する大規模な現場会議となった。この会議で彼が行った9時間にわたる話の要点は、「量より質を求めることにより、グローバルな競争力を獲得し、イノベーションを生み出すような企業文化を構築しょう」と要約される。

フランクフルト宣言

彼は東京での会議が終ると、フランクフルトに向かった。そこには4回に分けて役員をのべ100人招集し、会議を開いた。このフランクフルトの会議と演説が、新経営宣言となった。彼はゆっくりと確信にみちた語調で、8時間も話し続けた。

サムスンでは、この演説を全会社のテレビで放送し、すべての従業員に周知させた。

さらに、この演説はサムスンの枠をこえて、韓国全土に波紋を広げ、新聞のみならずKBSがテレビ放映した。そしてこの演説は韓国の企業文化を変える転換点となった。

彼の演説は役員1800名に対して、のべ350時間に及び、800時間の質疑応答が行われたことになる。

サムスン新経営の成果は数字としても現れはじめた。1987年、彼の会長就任の時から、新経営の仕上げが行われた1996年までの売上は、およそ4倍以上に急増していった。

それ以後も、サムスンは会長の陣頭に立つ血のにじむような改革努力によって、韓国のトップ企業として発展を続け、世界の注目を集めている。

われわれは以上、李健煕会長の生長過程と会長就任以後の人材を尊重する改革の精神と量より質を尊重する手法を、いくつかの研究成果に依拠しながら見てきた訳であるが、それ以後の具体的な分析は、経営の専門書にゆだねることにして、この文を終ることにしたい。

〈科学と未来〉から抜粋

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2 COMMENTS

名前はサムスン💕

へぇ~ 7人兄弟?👀💦 へぇ~ 学習院と早稲田?👀 へぇ~ 東洋放送?👀
へぇ~ 犬のブリーダー?👀 へぇ~ レスリング?👀
しらなんだ~💦
しかし、財閥のトップになる人は、考え方がしっかりしてるね~😊

故郷は釜山の李家

長かったけど根気よく読みました。
とても面白かったです。
成功者の並みならね観察力と行動力に感動の一言です。

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