日本における重光武雄の奮闘
彼は家族の生活を改善するため、そして自らの人生を開拓するために、決意も新たに日本の首都・東京での生活を始めた。
多くの朝鮮人が経験したように、牛乳配達、雑役夫、工場作業員、トラック運転手などさまざまな仕事をやりながら、同時に当時、日本人青年の最大の関心事である20歳での「徴兵検査」(これに「合格」すれば無条件に日本軍兵士となり、国の指示する軍隊に入隊し、戦争に動員されねばならぬ)に対処せねばならなかった。
そして彼の選んだのは早稲田高等工業学校の夜間部への入学であった。夜間部であるために、入学志望者は多くなく、入学試験もゆるやかで、容易に入学でき、夜間であるため昼の仕事に就きながらも勉強もでき、かつ工業系の学校であるため20歳での「徴兵」も延期されるという優遇を受けることができた。(1943年3月、朝鮮に徴兵制公布、8月施行)
重光武雄が渡日した1941年の年末の12月8日、日本軍はハワイ真珠湾攻撃、-米軍との戦争開始である。大本営が発表する「赫々たる戦果」に日本中が興奮し、酔い痴れる中、心ある朝鮮人たちは、あまりにも国力(生産力)の格差のある対米戦を開始した日帝の妄動に、「これで日帝の滅亡が近づき、そして朝鮮の解放の日も近づいた」と、ひそかに喜びあったものであった。
良心的な人々が予想したとおり、半年後のミッドウェー海戦では「沈没したはずの米軍空母」が多数出現して、日本の主力4空母を沈没させ、これを契機として両国の海軍と空軍の戦力の格差は歴然となり、太平洋諸島に展開した日本軍に対する補給は不可能となり、数百万の日本軍は飢餓状態に向かうのである。
同時に、太平洋諸島を再攻略した米軍のB29は、1944年11月24日、東京の初空襲につづき、翌3月9~10日の東京大空襲(22万戸焼失、死傷者12万名以上)をはじめとして、毎日2都市ずつを焼滅させていき、ついには日本の敗戦が確実になった後のヒロシマ・ナガサキに対する原子爆弾投下となるのである。
このような過酷な状況下で、重光青年の前に現れた一人の日本人の老人がいた。以前から重光青年の真面目な生活ぶりに好意をもち、なんとか助力してやりたいと考えていた花光(はなみつ)という古物商の老人である。
重光が早稲田高等工業に在学中から、機械生産に必要な旋盤カッティングオイルを開発する研究所で働き、その油の製造法を学んでいることを知っていた。
彼が言うには、「軍需用機械生産のためのカッティングオイルが品薄だというではないか。君が工場を作ってオイルを生産するというであれば、5~6万円位なら貸してやってもいいよ。工場も当てがないなら俺が紹介してやるぞ。君の考えはどうなんだ」と言うではないか。何も考える必要はなかった。彼は直ちに行動を開始し、大田区大森に適当な工場を探し出し、オイル生産の諸機具をととのえて、生産を開始する準備はととのった。
しかし、重光武雄に与えられた最初のチャンスは、もろくも一場の夢となってしまった。アメリカのB29の爆撃によって大森一帯の市街地は一夜にして廃墟になってしまったのである。
しかし、これに失望し、夢を失ってしまう重光青年ではなかった。彼は花光老人に「もう一度チャンスを与えて下さい。」と頼み込み、今度は新宿から山梨県の甲府に向かう中間地点、軍都立川市の少し先の生糸の生産都市である八王子市の市街に小さな工場を見つけることができた。
八王子は絹織物の産地として知られていたが、戦争の激化とともに、それは贅沢品とされ、それらの中小工場は軍需工場への転換が進められていた。コーティングオイルは機械生産に必要であり、これは軍需工場と認められたのであろう。彼は次のように言っている。
「初めは、工場は順調でした。しかし一年半過ぎた頃、米軍機B29の空襲を受け、工場は全焼してしまいました。耐え難いことでした。資金を貸してくれた老人は『これも運命だ。お前も生きる道を探せ。わしは田舎に帰って百姓でもして暮らそう』と言ってくれたのですが、とにかく老人の有難い恩恵に何としても報いようと思いました。」
八王子市への空襲は日本の敗戦の直前の1945年8月2日0時過ぎのことである。B29、169機が2時間にわたり大量のエレクトロン大型焼夷弾を効果的に落とし、市の中心街、陸軍幼年学校、八王子駅など市街の80%を全焼させた。(ただし宿場町の時代から有名な田町遊郭は除外され、日本敗戦後、米占領軍の兵士がここに押し寄せ行列を作ったという。)
その後の急迫する戦況の変化は、人々のよく知るところであるが、米軍はB29による大都市への爆撃を継続する一方、地方の中小都市を計画的に、一日に2都市ずつ抹殺・焼滅させていった。
以下、日本敗戦前後のいくつかの事実を列挙する。
3月9~10日、B29による東京大空襲、22万戸焼失、死傷12万人、被災者100余万人。
4月1日、米軍沖縄本島に上陸。6月23日、日本守備軍、住民を巻き込みながら全滅。
6月8日、天皇臨席の最高戦争指導者会議で本土決戦の基本大綱を決定。
7月26日、連合軍、対日ポツダム宣言発表。日本首相は黙殺・戦争邁進の談話。
8月6日、広島に原爆投下。
8月8日、ソ連、対日宣戦布告。
8月9日、長崎に原爆投下。
8月15日、天皇、「終戦」の詔勅放送。
8月30日、連合国最高司令官マッカーサー厚木に到着。
9月2日、降伏文書調印。
9月27日、天皇、マ元帥を訪問。
9月29日、各紙、この写真掲載、(国民に衝撃)
10月10日、政治犯釈放。自由戦士出獄歓迎人民大会。
10月15日、治安維持法廃止。
一方、戦争遂行のため日本に連行された200万人を越える朝鮮人兵士、徴用者、労働者とその家族たちは、日本側の意図的な職務怠慢のため、これまでの報酬や諸手当を受け取ることなく、放置され、やむなく自力で故郷への帰還を図ったが、米軍の人権と常識を無視した現金千円以下、荷物数キロ以下の持ち出し統制に苦しめられた。いずれにせよ故郷へと急ぐ人たちは、解放の喜びと運命の不運をなげきながら、九州博多や山口県下関などの港に押し寄せたが、行政側の怠慢と誠意のなさにより、配船の見込みが立たず、私的に小漁船を買い入れて帰国を図る人も多かった。
ただし、せっかく故郷に帰っても、働く職場もなく、無一文になって再び密航船で日本に戻る人も多かった。日本政府は、これら朝鮮人をこれまでの責任を負うことなく、勝手に「君たちは日本人でなくなった。あるいは第3国人だ」として非人道的、差別的に取り扱うことになる。
日本政府の戦後より一貫している植民地支配に対する責任、戦争犯罪に対する責任の回避(ドイツとのあまりに明白な差異)によって、日本人の「品性」に対する国際的な疑惑の根元となっているその心性と政策は、依然として現在も継続されているのであるが。
いずれにせよ、これら日本の敗戦にともなう情勢の大激変を、重光武雄はじっと沈黙で耐え忍びながら、起業のチャンスの到来を窺うのであった。
へぇー 偉いね👌
と言いながら、全部読めない😢
だって長いんだもん😓
小説一冊くらい💦
初めと最後だけ読みました。笑
朝は時間切れ。帰ってきたら真ん中読もうかな。🤣
重光さん大好き、도꾜제일の近くに東京スタジアム🏟ロッテオリオンズの本拠地小学校の時、試合がある日はほとんど行った小学生無料だった⚾️同級生とアルトマン、ロペス、有藤選手大好き💕優勝🏆した時はグランドに降りてハシャギまくってた懐かしい🙆♂️又錦糸町のロッテ会館の우리동포の結婚式の聖地、地元墨田지부に所属してた頃ロッテ会館に💐結婚式🤵♂️👰♀️の打ち合わせ지부위윈장と行くと在日朝鮮人特権50万円値引き🫢何組もやってもらいました。重光オーナーには何回かお会いしましたいい人でした。🙇♂️
2日かけて読み終えました。
読み進めるうちに、どんどんハマっていきました。
「家族に豊かな生活をさせたい!」
そこから始まった快進撃。
在日のヒーローですね。
高校時代、新宿駅内のロッテリアに通った頃を懐かしく思い出しました。