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【歴史】舞鶴湾で起きた謎多き大事件【前編】

鉄道建設現場の「タコ部屋」

多くの朝鮮人が日本敗戦の直後、大湊港から浮島丸で帰国することになったのはなぜなのか。それを知るために、青森県を訪れた。

当時、「大湊警備府」は下北半島の軍事要塞化を急いで進めていた。警備府の5~6万人の将兵が、無補給でも3ヵ月間戦えるようにするための計画を立てていた。鉄道・トンネル、飛行場の滑走路や地下保管庫などの建設のために、青森県では数千人の朝鮮人が働いたという。

1936年、軍の要請を受けた国鉄は、下北半島の最北端にある大間までの鉄道建設に着手。そこで北海道と鉄路を結ぼうとしたのだ。1939年に大畑まで開通したものの、そこから先の工事は建設資材の不足により1943年に中止された。

この鉄道建設工事には、多くの朝鮮人労働者がたずさわった。未開通となった区間には、今もそうした労働で造られたコンクリート製のアーチ橋やトンネルがいくつも残っている。その一部は観光用に整備されているが、昨年8月の水害で撤去されたアーチ橋もある。

次に、この鉄道建設での最大の難所といわれた「木野部(きのっぷ)隧道(ずいどう)」を見に行く。眼下には海が広がっている。トンネルの長さは、約1キロメートルあるという。

ここでの難工事を行なった瀬崎組の「木野部飯場」は、労働者を監禁して過酷な労働をさせた「タコ部屋」だった。この場所で、多くの朝鮮人労働者が事故によって死んでいる。近くには長さ443メートルの「焼山隧道」があり、中へ入ることができた

浮島丸が出港した大湊港は、陸奥湾に面した良港である。大湊桟橋は、ここにあった旅館の名前をとって「菊地桟橋」とも呼ばれた。沖合約1キロメートルに停泊していた浮島丸に乗船するため、桟橋から艀(はしけ)が乗客たちを運んだ。

しかし、今では、当時の面影は何も残っていない。

穏やかな舞鶴の海

浮島丸が沈んだ舞鶴市へは何度も訪れている。舞鶴湾を一望することができる五老岳から見ると、入り組んだ地形が良く分かる。湾口が狭いために波は静かで、外海からは湾内が見えないために防御しやすく、軍港に適していた。

舞鶴に「海軍鎮守府」が設置されたのは1901年。日本海側の唯一の海軍基地だった。湾内には今、海上自衛隊舞鶴基地の巨大なイージス艦やミサイル艇が何隻も停泊している。今もなお重要な軍港なのだ。

浮島丸が沈没したのは、下佐波賀の沖合300メートル。岸辺に立って穏やかで美しい海を眺めていると、ここで大海難事故があり、多くの人が亡くなったことなど想像できない。

舞鶴東公会堂で「第1回浮島丸殉難者追悼慰霊祭」が行なわれたのが1954年。それ以来、追悼行事が地元市民の手で続けられてきた。事件を風化させないため、1978年には下佐波賀に小さな公園を造成して「浮島丸殉難の碑」を建立した。

この高さ2.6メートルのブロンズ像は、舞鶴市内の中学校美術教師たちが制作し、多くの市民による寄附金と行政からの補助金で完成した。子どもを抱えたチマ・チョゴリ姿の女性が沈没現場を見据え、その回りを苦悶する人々が取り囲むという像だ。

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1 COMMENT

尊い命👏

へぇ~ こんな事件もあったんですね~ しらなんだぁ~😢勉強不足だな~
しかし、真相解明して欲しいね~ 
そんな簡単に爆発したり、沈没するわけ無いもんね~💦
誰かが、何かを、隠している~👀 名探偵コロンボにでも依頼すっぺ👏

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