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【歴史】舞鶴湾で起きた謎多き大事件【後編】

「機雷」か「自爆」か

いくつもの重大な謎がある「浮島丸事件」。最大の謎は爆発原因である。

米軍機雷への「触雷」であるならば「不可抗力に起因する災難」(厚生省引揚援護庁、1950年2月28日)とすることができるかもしれない。だが乗務員である海軍兵士による「自爆」であれば、日本政府には明確な責任がある。

舞鶴湾にも多くの機雷が敷設されていた。『爆沈・浮島丸』(品田茂)に須永安朗さん(1925年生まれ)の話がある。

「この舞鶴なんかにも夜間にアメリカの爆撃機B29が飛んできて、パラシュートで機雷を落としていくのです。当時の飛行機はプロペラ機ですから、音のするほうを探照燈でずーっと追っていく。そして翌日、機雷の落ちたところを探し当てて、機雷を爆発させるということをやっていました」

『舞鶴よみうり』の1978年9月1日号に「機雷掃海に命をかけて」と題し、舞鶴湾へ米軍が投下した機雷についての記事がある。書いたのは海軍の「舞鶴防備隊」で、掃海責任者だった佐藤吾七さん。

「感応機雷には鉄船から発する磁気に応じて爆発する磁気機雷が2種、エンジンの音に感じて爆発する音響機雷が2種、それに磁気・水圧複合機雷との5種類があり、これが混用されていました。そのうえ厄介なのは、感応機雷には日限装置や回数起爆装置がついていたことです」

米軍機雷の処分は、きわめて難しかったのだ。米軍によって舞鶴周辺へ敷設された感応機雷は465個で、敗戦時までに処分できずに残ったのは約200個だったという。舞鶴湾では浮島丸のほかに8隻が触雷し、その内の4隻が沈没している。

佐藤吾七さんは浮島丸の爆発原因を、「被害の状況から見ても明らかに感応機雷に触雷したことは間違いありません」とする。だが、米軍の投下記録と機雷の機能からすればそれは疑問だ。

米軍は舞鶴湾内に、1945年6月30日~8月8日まで5回にわたって機雷を投下。回数遅動起爆装置付きの機雷は、何回目の船の通過で爆発するかを8回まで任意にセットできる。日限起爆装置によって機雷が動き始めるのは最大で10日後なので、遅くても18日頃には起動していた可能性がある。

だが機雷が起動していたとしても、24日に浮島丸が通った水路を直前まで多くの船舶が通過しているのだ。

「浮島丸沈没時、真っ先に救援船で駆けつけた梅垣障さんは、『24日特に多くの船が入港してきましたが、浮島丸は、舞鶴に入港してくる艦船が絶える直前に入港してきた最後の船です』と証言している」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

爆発時に水柱は立ったのか

触雷かどうかの判断で重要になるのは、爆発時に水柱が立ったのかどうかだ。触雷ならば船外で爆発が起きるので、大量の海水が噴出して艦橋よりも高い巨大な水柱が立つという。それについての、乗客や乗組員たちの証言がある。

李鐡雨(イ・ジェソク)さん(1927年生まれ)は、「陸が見えるというので船首の甲板にいました。その時に爆発が起きたのですが、水柱は見ていません」と断言した。同じように甲板にいた朴載夏さんと張永道さんも見なかったという。乗組員の重要な話もある。

「艦橋で指揮をとっていた航海長・倭島定雄元大尉も、私(金賛汀)の『爆発時、水柱が上りましたか』という質問に、しばらく考えていたが『いや、水柱は上がらなかった』と答えた。(略)再度念を押したが、答えは同じであった」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

また触雷であれば、爆発は1回だけだ。張永道さんは、「爆発音は、大きな音の後に弱い音が1~2回した」と言う。この点について金東連さんは、「音は2回聞いたが、2番目は小さかった」と微妙に異なるが、爆発は1回だけではなかったようだ。

私が話を聞いた韓国人生存者12人の全員が、沈没原因を「自爆」だと断言した。自らの意思に反して連行されて過酷な労働を強いられ、乗っていた船が沈没したものの日本政府はその原因を明らかにしていないーー。そうした日本への不信から、「自爆」としか思えないのだろう。

この浮島丸事件を詳細に取材し、『浮島丸釜山港へ向かわず』(かもがわ出版)としてまとめた金賛汀さんは、舞鶴湾の米軍機雷について次のような結論を下している。

「米軍の機雷投下日、機雷性能、日本海軍の掃海活動、日本敗戦後に舞鶴に入港してきた船舶数、そして浮島丸の航路等々からみて、浮島丸が機雷で沈没する確率はきわめて少ない。いやほとんど考えられないと言える」

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2 COMMENTS

何があったのかな?

大変な事件があったんですね~
この文章も、朝から読むのも、ちょっと疲れました~💦 ながぁぁぁ~
しかし、真相解明できればいいですね~ そして、しっかりとした賠償!👏
犠牲になった人たちの思いは、もう計り知れないですもんね~😢
お札が一瞬にして~ パー💦

今は京都市民

この事件は昔から言われてたんだけどあまり知られてないんだよね。
事実、在日の中でも知らない人も多い。
でも、長い植民地政策によって日本で限りない苦労をした我らの祖父母やアボジ、オモニが、解放の喜びを持って故郷に帰ろうとした矢先に、無惨にも舞鶴の海に沈んだ無念を思う時、決して風化させてはいけない事件だと思う。
こう言う企画は堅苦しく、避けて通りたい問題だけど、少しでも関心を持ってくれたら良いと思う。
投稿者さん、ナイスです👏👏👏

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