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【歴史】舞鶴湾で起きた謎多き大事件【後編】

引き揚げ船体の写真

浮島丸の爆発原因を特定できる「決定的な証拠」はないのだろうか。私は爆発箇所の鮮明な写真を入手し、爆破の専門家による鑑定を受けようと考えた。

軍艦として使用された「浮島丸」船体の引き揚げと遺骨収容は、日本政府の責任で実施すべきあるにもかかわらず放置され続けた。この船を所有する大阪商船は、船体を修復して再使用しようとした。

船体は、真ん中より少し前の位置で2つに折れていた。1950年3月、再使用の可否を調べるために、とりあえず機関室を中心とした後半部が「飯野サルベージ(飯野重工舞鶴造船所)」によって引き揚げられた。だが、使用不可能と判断されたため、前半分はそのまま放置される。

朝鮮戦争によって、鉄の価格が上昇。船体を「鉄くず」として売却するのを目的に、前半分も引き揚げることになった。死没者の遺骨収容は、あくまでも“ついで”なのだ。死没者を軽視するこの引き揚げに在日朝鮮人団体は強く反発。舞鶴地方復員残務処理部などへ、抗議行動を続けた。

結局、1954年1月に船体は引き揚げられ、7月にドックへ入れられた。約70人の在日朝鮮人が舞鶴市内の寺院に泊まり込み、約2週間かけて船体内の遺骨を拾った。

この時、在日朝鮮人の団体と『国際新聞』のカメラマンが、船体を写真撮影している。私はその写真を、何枚か入手した。ただ、複写を重ねたためか不鮮明なのと、撮影者が誰なのかが分からない。

外側を撮った写真からは、船体はしっかりとしていることが分かる。2つに割れたものの、船底に大きな穴が空いているようではない。だが船底に近い位置の鉄板が、破れて大きく曲がっているという写真がある。

国際新聞』は1954年10月9日付の1面に、「海底に遺体を9年間も放置」と題した記事を掲載。そこに2枚の写真がある。ボロボロになった布らしき物と懐中時計が写った写真の説明文は「9年後やっと引揚げられた浮島丸乗員の麻の背負い袋、表面に朝鮮文字が綴られてある、右上は腐蝕した時計」とある。

もう1枚の写真説明は「浮島丸の船底、触雷だと内側にむかって穴があくが、この写真では外側にふくれており、船内での爆発によるものとの推論もうまれてくる」としている。この掲載写真は分かりにくいが、私が入手した写真では奥の穴に向かって鉄板が曲がっているように見える。

『国際新聞』は大阪で発行された駅売りの日刊夕刊紙だったが、会社はすでに解散。朝鮮人団体が撮影したネガは朝鮮総聯に引き継がれたが散逸してしまったとのことで、鮮明な写真は入手できなかった。

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2 COMMENTS

何があったのかな?

大変な事件があったんですね~
この文章も、朝から読むのも、ちょっと疲れました~💦 ながぁぁぁ~
しかし、真相解明できればいいですね~ そして、しっかりとした賠償!👏
犠牲になった人たちの思いは、もう計り知れないですもんね~😢
お札が一瞬にして~ パー💦

今は京都市民

この事件は昔から言われてたんだけどあまり知られてないんだよね。
事実、在日の中でも知らない人も多い。
でも、長い植民地政策によって日本で限りない苦労をした我らの祖父母やアボジ、オモニが、解放の喜びを持って故郷に帰ろうとした矢先に、無惨にも舞鶴の海に沈んだ無念を思う時、決して風化させてはいけない事件だと思う。
こう言う企画は堅苦しく、避けて通りたい問題だけど、少しでも関心を持ってくれたら良いと思う。
投稿者さん、ナイスです👏👏👏

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