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7人の老若男女に訊く「高麗人であることの意味」ー③

ウズベキスタンと朝鮮にルーツを持つブランド〈J.Kim〉を身にまとい、ソ連に移り住んだ朝鮮民族の子孫たちが、アイデンティティやコミュニティ、そして異国にふるさとを見出すことについて語った。

ヴィオレッタ(25歳) 職人/起業家

──家族の出身は?

わたしが住んでいるのはウズベキスタンのタシュケント。わたしはここで生まれた。母も父も朝鮮人。ふたりもタシュケントではないけれどウズベキスタン生まれで、祖母が幼いときにこの国に移住してきた。

──家族の歴史について、みんなで話し合うことはありますか?

普段はほぼ話さない。わたしが11歳か12歳のころ、どうして家族がウズベキスタンで暮らすことになったのかが気になって、そのときに初めて両親が話してくれた。教えてくれたのは主に祖母だったけれど、残念ながらわたしが11歳のときに亡くなった。移住やわたしたちのレガシー全般について質問する必要性をあまり感じなかったから、全体を把握してるわけじゃない。

──自分は朝鮮人だと思いますか?

朝鮮の人びとにとって、わたしたちはもはや彼ら彼女らのコミュニティに属しているとはいえないと思う。もう同胞としては受け入れてもらえない気がする。考え方も全く違うし。(ソビエト)コリアンも、北朝鮮や韓国のことはわからない。わたしたちは、大まかに言ってしまえば、朝鮮の人びとの価値観にはそぐわないものを取り入れているから。わたしたちはもう一歩先に踏み出した。朝鮮ではよそ者だし、ここでも決して〈svoi(同胞)〉にはなれない。わたしたちは小さな自治区のようなもの。

──あなたにとって、朝鮮人であることにはどんな意味がありますか?

まず、わたしはウズベキスタンで生まれたから、自分のことをウズベキスタン系朝鮮人だと思ってるけど、朝鮮人であるとはどういうことか、自分がどう感じているか、考えたことは一度もない。ある年までは幼稚なレイシズムのせいで、朝鮮人であるということは普通のことなのか疑問に思っていた。今では自分は朝鮮人で、ここに確かに存在し、自分について学び、この国や世界の他の場所で生きるとはどういうことかをきちんと理解してる、と堂々と言うことができる。

ヴィクトル(75歳) フォトグラファー

──あなたにとって、自分の中の朝鮮人らしさに触れることは大切なことですか?

僕は朝鮮人に囲まれて育つなかで、(朝鮮人に固有の)特性を感じるようになった。当時はその価値を理解していなかった。両親は理解していたけどね。彼らはすでに混血の世代だったから、それを大切にしていた。彼らは当然ながら、それがいつか全て失われてしまうことを懸念していた。僕たちには特にそういう思いはなかったけれど、成長するにつれ、後になってからこれは守るべきものだと気づいた。僕が写真に携わっていなければ、今でも気づいていなかったかもしれない。朝鮮人らしさを重んじることは、僕の子どもや孫の世代にとっても必要なこと。今はまだ、それに触れた体験はないかもしれないけど、遅かれ早かれ自分はどこから来たのか、という疑問が生じるはず。

──ご両親が受けた弾圧について知ったのはいつですか?

弾圧、もしくは〈再定住〉に関しては、僕たちは他のソ連の人びとと同様、自分の歴史を知らないまま成長してきた。その歴史はどこにも記されていなかったから。両親はずっとこのことについては沈黙を貫いていた。どこかで小耳に挟んで、それが記憶に残ることはあったかもしれないけど。1988年、グラスノスチによってメディアがアーカイブを公開し始め、そのときに朝鮮人が捕らえられ、列車に押し込まれ、強制移住させられたことを知った。僕たちの世代はそのことを知ってはいたけど、規模については全く知らなかったんだ。

──高麗人はその後、自身のアイデンティティやお互いと積極的に関わるようになったと思いますか?

収穫祭や正月など、(朝鮮の)文化的なものが復活し始めたのは、この国に(朝鮮民族の)カルチャーセンターがつくられた90年代はじめになってからだった。みんなが僕たちの出自に興味を示すようになった。

──韓国に行ったことはありますか?

何度もあるよ。韓国では、自分が観察者のような気分になる。今でも別世界のような感じ。

ネッリ(82歳) 教師/校長

──出身とお仕事について教えてください。

わたしは両親が極東ロシアから強制移住させられたあと、1940年に(当時はソ連の構成共和国のひとつだった)ウズベキスタンのフェルガナで生まれた。祖国の言葉を知らない子どもたちが、せめてその言葉に触れる機会を得られるように、(モスクワに)朝鮮人学校を開設した。

──ソ連の高麗人はどんな状況にありましたか? 当時は朝鮮語を話すことはできたのですか?

1937年より前に生まれたひとは朝鮮語を話していたけれど、その後朝鮮語の使用が禁止された。モスクワに進学した兄は1935年生まれで、少しだけ朝鮮語を話せた。トロリーバスの中で友だちとこっそり朝鮮語で話していたら、モスクワで外国語を話したというだけで警察署の留置所に収容されてしまった。いろんなものが隠され、焼かれ、破壊された。

学校を開設したとき、わたしは朝鮮語を全く話せなかったけれど、ゼロから始めるという目標を決めた。だから、52歳で朝鮮語の勉強を始めた。

──高麗人の運命についてよく考えますか?

昔はなぜわたしたちの民族には国がないんだろう、といつも自問していた。わたしたちはロシア語を話すけれど、自尊心を傷つけられ、〈つり目〉〈黒い〉〈汚れた民族〉などと呼ばれた。でも、母はこう答えた。「あなたが生きている時代はまだマシだということを理解して。お父さんとわたしは足を伸ばして静かに眠ることもできなかった。でも、あなたはそれなりに自由に歩き回れるでしょう」

i-D Magazine – VICEから

2 COMMENTS

在日でよかった😢

う~ん、私たちがいかに恵まれていたか、と強く感じます。やはり教育ですよね。ウリハッキョ万歳ありがとう。

クンタキンテ

昔、「ルーツ」と言う映画を観て、すごく感じた部分があった~😞
日系も世界中に散らばっているし、中国や韓国人も、世界中どこに行ってもいるもんね😊
移住の経緯は別として、自分たちのルーツを大切にして欲しいなぁ~😍
ある本で読んだことある、、、 
移住しても国籍を変えない中国人を、「科挙」といい、
国籍を変えても誇りを持っている中国人は、「華人」~
まったくその国に染まってしまう中国人は、「帰化人」~
我々は、どうなんだろう~👀

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