「月はどっちに出ている」「血と骨」など骨太の作品を数多く発表し、22年6月まで日本映画監督協会の理事長を務めた崔洋一監督が27日午前1時、ぼうこうがんのため東京都内の自宅で死去した。73歳。長野県出身。
がんを患っていることを1月に公表して闘病したが、力尽きた。葬儀・告別式は家族や近親者で行う。喪主は妻青木映子さん。後日、お別れの会を開く。
晩年は病魔との戦いだった。今年1月、ぼうこうがんの闘病中であることを公表。19年4月、「尿が出ない」と異変を覚え、都内の病院で検査を受けたところ、ぼうこうにがんが見つかった。人工ぼうこうを付けるストーマ手術を提案されたが、紹介された大学病院で自身の小腸を切り取って代替ぼうこうを作る手術を選択。20年4月に16時間にも及ぶぼうこうの全摘出手術を受けた。
1年後の検査では右腎、リンパ、肺に転移していることが判明し、抗がん剤治療も経験。年明けには肺炎も患った。それでも「映画監督としても、監督協会の理事長としても、やりたい仕事がまだまだある。そのためにまず治療に専念したい」と、がん克服を信じてやまなかった。
東京の朝鮮中高級学校高級部を68年に卒業。東京総合写真専門学校を中退し、照明助手として映画界入りした。小道具や製作進行担当を経て演出部に転向し、72年に助監督に。大島渚監督の「愛のコリーダ」(76年)、村川透監督の「最も危険な遊戯」(78年)、山下耕作監督の「戒厳令の夜」(80年)などでチーフ助監督を務め、81年に日本テレビのテレビ映画「プロハンター」で監督デビューを果たした。
83年、親交の深かった故・内田裕也さんが企画し、主演、共同脚本を書いた「十階のモスキート」で劇場映画に進出。同作はベネチア国際映画祭にも出品した。
そして93年にはWOWOWで制作した短編連作を劇場映画に構築し直した「月はどっちに出ている」を世に放った。在日コリアンのタクシー運転手と日本でたくましく生きるフィリピン女性との恋愛模様を軸にしたヒューマンドラマで、ブルーリボン賞、毎日映画コンクールほかの各賞を総なめにした。
94年に朝鮮籍から韓国籍に変更し、96年には文化庁新進芸術家在外研修員として単身韓国の延世大学に留学。同国の映画人たちとの交流を通して日韓文化の発展に寄与した。
04年に日本映画監督協会第8代理事長に就任。この年、ビートたけしの主演で映画「血と骨」を発表し、毎日映画コンクール日本映画大賞や日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞などを受賞した。06年にはチ・ジニの主演で初の韓国資本の映画「ス SOO」を撮影し、07年3月に韓国国内で公開された。08年夏に日本でも公開されDVD発売された。
07年4月に宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)教授に就任。同年秋、白土三平原作、宮藤官九郎脚本、松山ケンイチ主演による映画「カムイ外伝」の撮影に取りかかり、09年9月19日に公開された。
記事はスポニチwebニュースから
東京朝高の先輩ですね。印象的な映画を沢山制作されました。
ご冥福をお祈りします。
ただただ、残念🤦♂️
まだ若すぎるよね~💦
ご冥福を祈ります~ 合掌👏
朝高出身者が大活躍の現在ですが、道を開いた先駆者ではないでしょうか。
闘病されていたんですね、お疲れさまでした。
ご冥福をお祈り致します。
キネマ旬報のベスト1発表会&表彰式で、記録映画の1位が「海女の●●さん」監督賞が催洋一監督でした。
在日の映画が2冠を取りました。
舞台上の監督を見ました。
ご冥福をお祈りします🤲