還暦を過ぎた歳になっても、知らないことは多いと、今更ながら思うこの頃です。ウリハッキョで習った民族教育はそれなりに学ぶことは多かったが、この歳になるまで韓国の農業に多大なる貢献をした禹長春博士のことは、この本を読むまで全く知らなかった。
禹長春博士は「韓国近代農業の父」と呼ばれ、朝鮮戦争後の韓国の農業を今日の隆盛に導いたのは、禹長春博士の功績といわれている。 ウリハッキョではビナロンを開発した李升基博士は教えてくれたが、禹長春博士のことは教えてはくれなかった。
禹長春博士は論文「種の合成」で、世界の農業を変えたといわれるが、韓国へ帰国したのは、朝鮮戦争が始まる1950年だった。
禹長春博士が生まれたのは日本だった。彼のアボジ禹範善は、閔妃暗殺事件の時、日本軍守備隊とともに王宮内に入った朝鮮訓練隊第二大隊の隊長である。親日派の禹範善が日本に亡命後に、日本人の妻・酒井ナカとの間にもうけた子供だ。
広島の呉に移った1903年に、父禹範善は亡命者の高永根に殺害され、禹長春は弟とともに母の手で育てられる。呉中学を卒業した禹長春は、東京帝国大学農科大学実科に進み、農林省西ヶ原農事試験場へ就職、後に農事試験場鴻巣試験地に転じられる。
禹長春はここで、朝顔の遺伝についての研究をし、ナタネの品種改良に取り組み、世界的に高い評価を受ける博士論文「種の合成」を完成させる。しかし農学者になっても、彼の身分は技手のままだった。ようやく彼が技師に昇進したのは、農林省をやめる一日前だった。
農林省をやめてからは、京都のタキイ種苗株式会社に農場長として迎えられ、ここで数々の業績を残すのだ。
1945年の朝鮮の解放後、博士をとりまく環境は一変する。植民地時代に荒廃した農村を再建し、日本に依存していた野菜の種子の問題を解決するために、韓国では「禹長春博士還国推進委員会」が組織され、博士の帰国を要請する。禹長春は悩んだ末に、この要請を受け入れた。
日本語しか話せない禹長春は、日本に家族を残したまま一人で韓国に帰国、農業科学研究所、後の中央園芸技術院の所長に就任する。ここで博士は、大根や白菜の種子を採取し、改良を加え、韓国の風土や気候にあう、種子を改良することに成功する。
済州島をみかんの産地として育て上げるなど、韓国農業の近代化のためにめざましい貢献をし、1959年8月、祖国の地でその生涯を閉じる。
この本は禹長春の生涯を、丹念な取材と日本人の視点で調べ上げて書き上げた書籍です。韓国では「種無しスイカの父」「 キムチの恩人」と呼ばれ、博士の功績が過大にひとり歩きしていることを一つ一つ客観的に検証していきます。
50歳を越した彼が、妻子を日本においたまま韓国に単身で渡ったのは、単に「愛国心」や父が「親日派」だったという負い目からでしょうか? 書籍はそうした謎にも迫っています。
へぇ~ しらなんだ~👀💦
でも、どのような経緯があって韓国に渡ったのかな?言葉もしゃべれないのに~
他にも、探せばいっぱい居そうですね~ このような偉大な方々は~😘
お陰様で、今では美味しいキムチを食べられているんですね~
しっかり味わなければ~ 禹博士~ コマウォヨ👏
う〰️〰️読みたい❗読みたいけど今読めない❗一日の時間があと5時間くらいあれば良いのに❗
先週亡くなった、京セラの稲森さんの奥様は、たしか兎長春博士の四女でしたね。
そう思うと歴史って面白いね~
へ~へ~へ~‼️知らないことが多すぎる‼️
ほんと面白い❗