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【投稿】武蔵野の森公園に残る戦跡を訪ねる

東京の多摩地域には、至る所に第二次世界大戦末期の施設跡が残されている。

今日は三鷹市、調布市と府中市にまたがる「武蔵野の森公園」を歩いてみる。

味の素スタジアム

国道20号線沿いにそびえ立つ味の素スタジアムの巨大な建造物や、東京外国語大学、榊原記念病院などの施設が入っている調布飛行場跡地だが、調布飛行場は1938年、東京府北多摩郡調布町と三鷹村、多磨村にまたがる約50万坪の土地に計画された飛行場だ。

東京外国語大学

当時は畑や家屋、お寺や墓地などが半強制的に買収され、東京府と逓信省航空局と陸軍省の予算で、飛行場の工事が始まった。

榊原記念病院

基礎工事には、府中刑務所の受刑者や地元の中学生までが動員され、3年後の1941年には南北1000m東西700mの二本の滑走路と格納庫などが完成する。

西武多摩川線「多磨」駅

調布飛行場は当初は、官民共同の飛行場として運用されたが、同年8月には陸軍の専用飛行場となり、首都防衛のために飛行第244戦隊が置かれ、三式戦闘機「飛燕」等の戦闘機が配備された。

調布飛行場の北西部にあった掩体壕と特攻機 1945年秋

戦況が悪化する1945年、日本の本土空襲を行う爆撃機や艦載機がこの飛行場や三鷹市大沢の高台に設置された高射砲陣地を爆撃し、死者が出る。

日本の敗戦後、調布飛行場は進駐軍に接収され、飛行場の西側には米軍の野菜供給のための水耕農場が建設された。代々木にあったアメリカ軍居住用施設が調布飛行場に移転し「関東村」と名付けられた。

1974年関東村は全面返還され、この跡地に大学や病院、福祉施設などが建設される。2001年に調布飛行場として正式に開港し、現在は大島 、新島などの伊豆諸島方面の空の玄関口として小型機が運行している。

今でも飛行場の周辺には、太平洋戦争末期に本土決戦に備えて、残り少ない戦闘機を隠した 格納施設などが残っている。

飛行場周辺を散歩すると、コンクリートの屋根がある建築物が現れる、掩体壕えんたいごうだ。掩体壕とは戦争末期に本土決戦に備えて戦闘機を隠した格納施設で、1944年6月から9月にかけて全国の軍用飛行場周辺に作られた。

掩体壕はコンクリートの屋根がある有蓋ゆうがい掩体壕と、屋根がなく周囲を土堤で囲い、木や草に覆いをかけた無蓋むがい掩体壕があり、調布飛行場周辺にも約30の有蓋掩体壕と約30の無蓋掩体壕が作られた。

調布飛行場

戦時中に全国に造られた、1000以上の掩体壕の多くは取り壊され、残された物も劣化や開発工事などで消滅の危機にある。

現在、武蔵野の森公園内には2基の掩体壕と、府中市内に2基の無蓋掩体壕が保存され、戦争の記憶を今も伝えている。

2 COMMENTS

オンニの家が調布飛行場の隣にあったので、庭でした🤣
特に柵とかも無かったので子ども達の良い遊び場だったので懐かしいです。

今もどこかで~💦

国民総動員で挑んだんだよね~ 狂った戦争に!💦
大変な時代だったんだね~
やだやだ~

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