中日戦争直前、朝鮮総督に赴任(36年8月)した南次郎大将は任期中に天皇の朝鮮行幸と徴兵制を実施するとし、「国体明薇」を施政方針とした。それは東方遥拝(宮城)、神社参拝の日常生活化を総論とし、国語(日本語)常用、色衣奨励(民族服の排除)、創式改名を各論とする政策となって民衆の日常を束縛した。
皇国臣民の誓詞(38年11月、子ども用)は次のようなものであった。「一、私共ハ大日本帝国臣民デアリマス 二、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス 三、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民トナリマス」。この誓詞を全国の子どもに書かせ、朝鮮神宮の「誓詞の塔」の基壇に埋めた。
学校の朝礼は、誓詞の合唱ではじまった。学校生活から朝鮮語が追放され(38年4月)、「国語(日本語)」を使用しない者は罰を受けた。学校の門は営門(軍隊の門)に通ずるといわれた。
創氏改名(1940年2月11日施行)は朝鮮固有の家族制度の廃滅を狙ったものであるが、差別に苦しむ朝鮮人の願いを聞いてあげた「大和大愛の発露」と宣伝された。金が金田となり、張が張本になったのはそのためである。
しかし「皇国臣民化」された者はほとんどいなかった。それは8月15日、解放の日、全士をゆるがす大歓喜で証明された。
100年かぁ〜 1世紀だよね😓
色んなことがあったんだね😰
一日一日を大切に生きなきゃ👌