解放後、日本でレンガ工をしていた実兄の招きを受けて密航船に乗んだ韓昌祐は、朝鮮奨学会の支援を得て法政大学経済学部に進学、1952年に卒業する。
しかし、在日朝鮮人ゆえに就職先のなかった彼は、現・京丹後市でパチンコ台20台を抱えるパチンコ店を経営していた義兄のところへ身を寄せ、その後義兄からパチンコ店事業を継承する。
1967年、日本で流行していたボウリング事業を始めるが、行きすぎた拡張戦略のため60億円の借金を抱えることとなる。この巨額の借金の返済のため、本業のパチンコ事業に本腰を入れ、必死な事業活動を展開、借金をすべて返済するのである。
屋号の「マルハン」とはボウリングの玉、パチンコの玉を連想させる玉、地球、円満の「マル」に社長名の「ハン」からマルハンとしたという。
商売の常だけど、「マルハン」の一人勝ちの様相ですね~😢
他の中小のパチンコが淘汰されているもんね~💦
しかし、人並み以上の努力があってこその話ですもんね~😞
でも、その淘汰されたパチンコの経営者の話もいっぱい聞いたことあるから、ちょっと複雑🤦♂️
盛大なパーティー、明るい朝礼。
ちょっとムリかな‥‥。
とは言え同胞の成功は喜ばしいです。
フィギアスケートの試合で、一際、目立つ看板⛸
渋谷は、ドンキになったり、新宿南口は、空きビルになったり、大型店も、厳しいようで…
玉の丸と韓だったとは…