平壌八景は李氏朝鮮時代から伝わる、往時の平壌の8つの美しい景色である。平壌の美しさをうたった詩は多いが、なかでも15世紀の詩人・曺偉が、平壌の名勝をうたった詩「西京八詠」が名高い。
詩の一節ずつをとったものが「平壌八景」として今に伝えられている。
平壌城内城の北の将台だった乙密台は、高さ11メートルの石築台の上に建てられた楼閣だ。
平壌城内城だった将台の名は、高句麗の名将ー乙密将軍の名に由来している。
6世紀の半ば、平壌城内の北側指揮所として建てられ、1714年に修築された。
現在ある楼閣は朝鮮王朝時代のものだが、その「土台と城壁」の石垣の下の部分は高句麗時代に築造された。
現在、錦繍山全体の総称を牡丹峰と呼んでいるが、もとは乙密台がある峰を「牡丹峰」と呼んでいたという。
浮碧楼からはゆっくりと流れる大同江を見下ろすことができる。
平壌八景にうたわれた「浮碧完月」(浮碧楼と大同江に映った月夜の風景)は浮碧楼の絶景をうたったものだ。
浮碧楼のそばには一段の高さが25センチほどの石階段がある。32段の石階段は高句麗時代に築造された。
高句麗の僧たちが階段を上り下りする姿を想像しながら石段を踏みしめると感慨がいっそう深まる。
永明寺は牡丹峰のふもとにあったお寺で、朝鮮戦争で破壊される前は、平壌では最大かつ最も重要な仏教崇拝の中心地であった。
永明寺がいつ建てられたのかは不明だが、高句麗の広開土王時期に出来たとの言い伝えがある。
日清戦争で寺の大半が焼失し、そして朝鮮戦争で跡形もなくなった永明寺。ウリナラの文化財が跡形もなく失われたことを心に刻む。
むかしは普通門の崖下に渡し場があり、普通江で客を見送る光景が「普通送客」として、平壌八景の一つとして知られていた。
いまでは人の移動は電車やバス、車での移動が中心となり、船での移動はその役目を終えたが、観光名所として復活が望まれる。
대동강は、狼林山脈と妙香山脈の間に源を発し、蛇行しながら楽浪準平原を経て、途中で馬灘江・沸流江・普通江・載寧江など大小の支流を合しつつ、西海に注ぐ。
その下流の周辺部には平壌の市街が広がり、その右岸に平壌の中心部がある。
愛蓮堂は、もとは平壌大同門外の蓮池の小島にあったもので、李朝・中宗の時1542年に、観察使・閔齊仁によって作られた。
むかしから蓮の花は、泥中に生まれ育つも泥に染まないことから、君子の花として称された。
「花の美しさは形に現れ、誰もがこれを知ることが出来るが、君子たるやその徳は隠れ、容易にこれを知ることが出来ない」と君子の心情をその名に込めたのだ。
その後愛蓮堂は、1909年に明治財界のリーダーとして称された、渋沢栄一の古希(70歳)を記念し、栄一の甥・尾高次郎が、清水店四代目当主・清水満之助(今の清水建設)に依頼し、愛蓮堂の建物を解体、東京飛鳥山の渋沢邸に移設・復元することを計画する。工事は翌年に完了する。
飛鳥山の渋沢邸に移設・復元された愛蓮堂は、その後東京大空襲による戦火で失われ、今日その姿をとどめていない。
飛鳥山公園に行くと、当時愛蓮堂が建っていたであろう場所には、瓦の破片や石塔の一部のみが、今もそのまま放置されている。
龍岳山は、平壌の中心部から西方13kmほど離れた標高292mの平壌市でもっとも高い山だ。
龍岳山は1億4000万年前から7000万年前の地殻変動によってできたと推測されている。
龍岳山には歴史的な遺跡も多い。山の中腹に位置する法雲庵は、高句麗時代の392年に建立された。
高句麗19代の広開土王が平壌に首都を移す際に建てた9つのお寺の一つで、ウリナラではもっとも古いお寺の一つである。
現在の建物は李朝中期の17世紀に建てられたものだ。
真冬になるといち早く凍った大同江だが、春になって氷が解け始まると、荷物を運ぶ馬たちは対岸まで荷物を運ぶのに難儀したことだろう。
馬灘の雪どけの写真は見つけられなかったが、ここは想像に任せることにしよう。
平壌にあった「愛蓮堂」が東京の飛鳥山公園に移築されてた。
そういう事実を初めて知りました。そしてそれを解体・移築したのは清水建設…。
今度、近くを散策してみたいと思います。
ウリナラにもいろいろな八景があるんですね✨
朝鮮八景、関東八景、関西八景…
まだまだありそうですね~
編集部の終わりのない探求心に脱帽です(笑)
建物の屋根が、皆一緒ですね~👀
昔はそうだったのかな?
真ん中の、建物の周りで踊っている人たちを見てたら、うちのオモニに似てる人が二人いました👀😊 同じ民族ですもんね~ 似てるはずだぁぁぁ
私も飛鳥山に移築されたとゆうのに一番驚きました。てゆーか、知らなかった事が多すぎる事に驚きです。😊
毎朝へーへーへーと感心して、夕方には忘れているんだろうな~、とは思いますが、清水建設が移築を任された事は覚えておきます。
しかも1909年に。なんか許せない。