「大丈夫ですか~?」
道端の空き地で足を投げ出し喫煙していた私に大声で呼びかけた人はガイドであった。彼は同行者をその場に残して近づいてきた。
私は急いでタバコをもみ消し立ち上がった。両手に力を込めて起き上がったが、体重が足にかかった時に右ひざにズキンと痛みが走った。
「彼女たちとお鉢廻りをして下りてきたところです。あなたが最後尾の参加者なんですけど、ご一緒しませんか?」
「いや、あの、その…」
思いもかけないガイドの提案に返す言葉もなくシドロモドロになってしまった。
同行するわけにはいかない。いや、行けるはずがない。体重移動時の痛みを減らそうと狭い歩幅を引きずるように進む私の歩調に合わせて下る同行者たち。考えるだけでも恐ろしい。だが、ガイドの誘いを適当に断る口実が思いつかなかった。
「真ん中の女性がひざを痛めてしまってペースは遅いんですけど… 結構いるんですよ。下山時に足を痛める人が。あなたは大丈夫ですか?」
「全然 大丈夫です!」
私は明るい声音を意識しながらハッキリと答え、ガイドにつられたように同行者たちを見た。ブランド品の登山ルックで身を固めていた例のオバサン3人組だった。昨日のバスでも、登山中も、夕食時も声高にしゃべっていた陽気さは影を潜めションボリとたたずんでいる。特に真ん中の女性は表情に悲壮感がうかがえた。
その瞬間、言い訳がひらめいた。
「ガイドさんはご苦労ですけど、あの方たちを補佐して先に行ってください。私は、何と言いますか… おいしい空気の中でタバコを吸い、景観を楽しみながら考えに更け、思いついたことをメモしながら自分のペースで下山しているので。実は私、旅行作家と申しますか、一応ライターの端くれなんです。全く売れてませんけど…」
思いつくままにスラスラと淀みなくウソを並べる自分に内心驚いた。
「あっ、そうだったんですか。分かりました。じゃあ、私はあちらさんを補佐しながら下山しますので。まだ時間には十分余裕はありますけど、集合時間厳守でお願いします」
ガイドは腕時計をのぞき私に会釈してからきびすを返した。
「ガイドさん、ちょっと待ってください。」
けげんそうに振り返るガイド前にして私は姿勢を正した。そして気持ちを込めて頭を下げた。
「昨日はつい感情的になってしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
心ならずもウソをついてしまったことを謝る気持ちも重なっていた。
「あっ、それは… 別に気にしておりませんので」
私が頭を上げ目が合った時、ガイドはバツが悪そうに頭を掻きながら何か言おうとして言葉を続けられず軽く頭を下げ引き返していった。
「さあ、六合目がすぐ先ですから、あとひと息頑張りましょう」
3人組に向けたガイドの声かけは思いのほか大きく弾んでいる。その声に促され3人がトボトボ歩きだす。その中の1人が足を引きずっている。その後ろをガイドが歩調を合わせてついて行く。私は姿勢を正したまま見送った。彼らがいよいよ視界から外れようとする時、ガイドが振り向いた。私と目が合い大きくうなずいた。私もうなずき返した。
清々しい気分を味わいながら私はゆっくりと中腰になり両手が地面につくと力を込め、尻がつくと足をそーっと伸ばして座った。そしてさっき揉み消した、最後の1本だったタバコを拾い上げた。揉み潰された火口を指で丁寧にシゴいて火を付けた。いわゆる「シケモク」というやつで、焦げ臭い匂いが風味を損ねてしまう。しかし、この時の味は満天の星を仰ぎ足下の夜景を望みながら吸った味よりも、「ご来光」に感動しながら富士山頂で吸った味よりもうまかった。
先行したガイドたちに追いつくことはないだろう。私はゆっくり立ちあがり相も変わらず歩幅を狭めた引きずるような足取りで進む。
いつの間にか登山路と合わさり、私を追い越していく下山者よりも向かってくる登山者の数が増えていた。
六合目では7~8頭の馬が頭を並べて待機していた。その場所は登山道脇の崖を切り開いたテニス場ぐらいの四角い空き地で、料金表も札ではなく、道端にデカデカと立てられた看板だった。
「金1万円也」
私は既にその値段がバカ高いものだと思わなくなっていた。むしろ富士山料金のバランスというか、その整合性に感心していたふしがある。ライターにしてもそばや缶コーヒーにしても、それはすべて歩荷たちの荷揚げによるもので登山者たちのニーズと溶け合っている。乗馬料金に至っては下山者の疲労度や距離間と見事に合致しているからだ。
「ダンナ、7千円にしときますよ」
「?!」
私の横に並びゆっくりした歩調に合わせながらも前を向き、独り言のようにつぶやく声に私は我に返った
「7千円で馬に乗れますよ」今度は大きな声でハッキリと私に呼びかける。
背が低く、髪が薄くてしわくちゃのカミを広げ伸ばしたようなシワだらけの日焼けした馬子だった。愛想笑いを浮かべる口からのぞいた前歯が何本か抜け落ち、残された歯にヤニがこびり付いている。
「いえ、大丈夫です」
「まだ結構歩きますよ」
「全然 平気ですから!」
馬子は私の引きずるような足取りに寄り添いながら執拗に食い下がる。
「ったく… じゃあ、6千円に勉強しますから」
「…」
なおもしがみついて離れない馬子の沈黙に耐え切れず「あなたも大変ですね」と応えた。彼を労ったつもりだったのだが、皮肉に受け取ったのか馬子の表情が見る見る険しくなった。
「ケッ、ショボイ客だ」
憎らしさのこもった捨て台詞を投げつけ、そそくさと引き返してしまった。
腹立たしさも反発心も起こらなかった。下半身が全体的にしびれるような痛みと度を越した疲労のせいかもしれないが、私はあくまで心の平静を保とうとするバランス感覚が研ぎ澄まされている自分に気がついていた。
「全然 平気!」
ガイドと馬子に発した台詞が娘のそれと同じであることに気が付き、思わず笑ってしまった。
今にも倒れそうでぎこちない歩行のギリギリでバランスを保っている肉体と矛盾した何とも晴れやかな心持でいられることの不思議さ。
いよいよコンクリートが敷かれた平坦な路に差し掛かった。
馬車が停まっていた。幌をかぶせた荷台に乗客が2人、出発を待っている。あと2~3人は座れそうだ。料金は千円である。私の足取りを見た行車が声をかけてきたが、会釈を返しゆっくり通り過ぎる。馬車から遠ざかったところで私は急にワッハッハと笑ってしまった。なぜそんなにおかしかったのか今も分からない。
遠くに登山口のゲートが見えてきた。時計は12時を過ぎたところだ。延々7時間に及んだ下山行…
まずはタバコが吸いたかった。最後の1本を吸いきり、無煙のまま歩行を続けているにもかかわらずイライラ感は募らない。
(切れてなお、イライラしない煙草かな)
俳句をもじりながら心の中で呟いている自分がおかしかった。カタカタ音をさせながら近づいてきた馬車が私に並び、そして追い越してゆく。4人の乗客が座っていた。一様に腕を組み、目を閉じてうつむいている。それまでに私は3頭の馬に追い越されていた。年配者はおらず、3人とも若い男性であった。その度に優越感を覚え、励みにしながら歩き通した下山路であった。富士山登頂の達成感は乏しかったが、苦行の連続だった下山路を痛めた足で歩きとおした達成感は比べる余地もない。それは自分なりのプライドが勘違いであったことを気付かせ反省し、大らかで素直な気持ちを取り戻せた貴重な体験として人生の1ページに刻まれた。
吉田登山口五合目ゲートを通り抜けた瞬間、私は「到着~っ!」と大声で叫んだ。そしてふらふらと壁際の段差に手をけかけ、へたり込むように座った。リュックから100均座布団を出すのも億劫だった。
その様子をどこかで見ていた娘がニコニコしながら駆け寄ってくる。
「アッパ~、おかえり!」
「うん。結構キツかったよ」
「オンニねえ、アッパは絶対、ゼッタイに馬に乗ってくると思ってたのに」
冷やかし口調であったが、明らかにテンションの高い声に娘のうれしさが隠れていた。大きく見開いて私をまっすぐに見つめるその瞳はキラキラと輝いている。
照れくさくなり「タバコ切らしちゃったんだけど…」と口ごもった。
「分かった。すぐ買ってくるから」
(ついでに何でも買っていいよ)と財布を預ける前に娘は一目散に駆けてゆく。娘が私になついていた小学生の頃、お小遣いをもらって喜び勇んで駆け去る後ろ姿が鮮やかに蘇る。
ふと、娘にとってもこの登山が緊張の連続で、相当にキツく苦しい道程であったことに気が付き、目頭が熱くなった。
× ×
あれから10年以上の歳月が過ぎている。
ちなみに登山後、両足の爪はすべてがダメになってしまった。最初、赤くにじんでいた爪が紫色から黒く変色し、その後爪の裏側にこびり付いて固まった赤茶けたシミになった。するとその爪を追い出すように新たな肌色の爪が生えてくる。それが3分の1ほどにも成長した頃合で旧い爪が剥がれてしまうのだ。それは風呂上りだったり、爪を切った時や靴下を履いた時だったり、タイミングもまちまちだった。10個の爪が剥がれ、新しい爪がきれいに生え揃うまで1年余りの時間を要した。
足爪の手入れをしながら、私はある瞬間カッとなり反発するような性分がとみに収まり、勝手な思い込みや勘違いで怒鳴り散らすことがなくなっていることに気が付いていた。
その後の富士山は? というと、山頂から急斜面に垂れた白い筋の写真、それは膨大な量のトイレットペーパーが溶けて流れたスクープ写真で夕刊に掲載された瞬間から大きな社会問題となってしまった。
富士山頂の領地権やら境界線問題で山梨県と静岡県が争っているだとか、山手線から望まれた最後の富士山スポットがビル建設にさえぎられてなくなったとか、世界遺産に選ばれたとか、入山規制がどうの入山料徴収がどうのと喧々諤々に議論されいるとか、その話題は枚挙の暇がないようだ。
いつの時代にも富士山は様々な人々の思惑や利害にさらされながらも孤高の姿で悠然とそびえている。そして、それを見つめる人の心に何かを映し出してくれる。
思いがけなく富士山が見えた時、私はしばしたたずみ見入ってしまう。そして、大きく見開かれた目で私をまっすぐに見つめていた娘の瞳を思い出す。
了
先ずはお疲れ様。
一読者としてはその後の娘さんとの仲はどうなったかが気になりましたが…やはり自分の足で最後まで歩いて来た事が娘さんとしては嬉しかったんでしょう。
遠い昔富士山に登った記憶が甦りました。
物語では下山がとても大変だったと描かれてましたが、私は案外スイスイ降りた様な気がします。
ただ、軽石が滑って何回か尻もちはつきましたが…
下山していると下から霧が立ち上って来てその霧に包まれるんですね。その中を掻き抜けてしばらく降りると霧が晴れるんですが、上を見上げるとそれが雲なんですね。
高山ならではの体験でした。
誰かが言った「富士山は見る山、登る山ではない」とも思いますが、その過程でのエピソードはいい思い出です。
でも、もう一度登る機会があれば…
いや、やめときます。😄
大自然の前で人間はアリのようにちっぽけな存在である事がエッセイの中から読み取れました。
やっとの思いで下山したその場所に普段は父に対して無表情だった娘さんが100万$の笑顔で迎えてくれた、ただそれだけでも無謀な挑戦をした価値がありましたね。
心地よいエンディングで朝から清々しい気持ちになりましたよ。
次回、新たなエッセイ楽しみにしてます。