春のうららかさを感じよう

写真で見る在日⑮-失業と貧困にあえぐ

福岡筑豊「アリラン峠」の養豚部落(1962年)
福岡博多の水上バラック(1967年)

解放直後の在日朝鮮人は衣食住から教育まで、すべてを自分たちの力で解決するほかなかった。定職を持つ者はほとんどいなかった。

1950年代のくらし(岩手県)

1952年の在日の全人口52万5803人、その内61%が無職、有業者の最大を占めるのが6.6%のニコヨンという日雇い労働者でその他、廃品回収業(屑屋)、混雑する夜汽車に乗っての食料の買出し、闇市での統制品の売買、1枚の板に商品を並べただけの露店、行商、ドブロクと焼酎造り、飴売り、養豚など、生きるために在日一世たちはどんな辛い仕事でもした。しかし、日本政府はこれを法令違反、反社会的行為と決めつけ、より排外性を強めた。

江東区枝川町(1964年)
「枝川朝鮮人部落」1952年 曹良圭 画
江東区塩崎町(1964年)
東京・要町のバタヤ部落のくらし(1965年)

密造酒10万円の罰金、懲役5年のポスターがある。朝鮮人に残された生活の手段、ドブロク密造に対する警告用のものである。

密造酒禁止ポスター(1948年)

敗戦後の日本は極度の食糧難の時代で、米を原材料とする酒は手に入らない貴重品であった。各地の朝鮮人部落でドブロクと焼酎が造られた。酒粕は豚の飼料となったので養豚を兼業とする人が多かった。

唐辛子を杵でつく(1959年熊本)

密造と日本当局の摘発が、イタチごっこのように世評を騒がせた。当時の弁護資料にはドブロク裁判に関するものがあるが、罰金10万円、懲役5年がどんな厳罰か、いまの貸幣価値に換算すると、絶句する刑罰の重さである。

「我が同胞部落」1955年 呉林俊 画

2 COMMENTS

どぶろっく

我々のアボジやオモニの時代ですよね😥 ほんとに、他人事じゃないね〜😥 がんばろ〜

マイノリティー

日本の中のマイノリティー在日。我々の歴史は人として当然❗️当たり前の "生きる権利"を主張した戦いの歴史です。激動の時代に(翻弄されながらも)逞しく生き抜いたご先祖様達へ感謝な気持ちだけは忘れません。しかし、一部の日本人のなかには(コチラもやはりマイノリティー)訳も分からずに我々を嫌悪する"愚かなる輩"が滑稽に騒ぎ立ててますが『人が生きる権利は何人たりとも侵すべからず‼️』と申し上げておきます。どこで生きようとその人の勝手です。誰に何と言われようと、心の自由までは奪えませんから。(^^)

現在コメントは受け付けておりません。