解放前の日本の社会運動や労働運動は在日朝鮮人の活動を除いては成立しないといわれている。差別をなくせ,生活の権利を守れといった運動は、在日朝鮮人が10万人を超えた1920年代前半から高まりを見せる。
この頃のメーデー(労働祭)の旗手は朝鮮人で、常に日本の運動の前衛として力を発揮していた。権力を悪とする無政府主義者(アナーキスト)の存在も大きかった。それは運動を敵対視する特別高等警察(政治警察)の担当が、「主義者係」「鮮人係」にわかれていたことにも表れている。
前者は階級問題からはじまる日本人の社会・労働運動が監視対象であるが、後者はそれに加え、命をかけて「私たちの国をかえせ」と叫んだ民族問題までが含まれていた。
日本当局は独立を口にする者は天皇の領士を盗む「不逞の輩」と称した。それは階級差別・民族差別(二重の差別)を意味し、容赦なき弾圧の対象となった。
戦時体例に移行する1930年代後半、日本の社会運動はほぼ壊滅するが、朝鮮人の運動は民族独立を志向しながらさまざまな形で続けられ、総動員体側をとる日本の弱点となった。
解放直後、治安維特法などで投獄された々(日本人を含む)の出獄歓迎の「出迎え」をしたのはほとんど朝鮮人であった。