40数年前に、日本に吹き荒れた嵐、ロッキード事件。
朝、テレビを付けるとアメリカ議会の公聴会でロッキード社のコーチャンが日本の政治家へ金銭を渡したと証言。その後、日本中は犯人探しで大混乱しました。
国会の証人喚問では、国際興業の社主小佐野賢治が「記憶にございません。」を連発。当時の流行語となりました。証人喚問中、小佐野賢治は田中角栄との関係を問われ「刎頸の友(ふんけいのとも)です。」と力強く答えてました。
当時、私は言葉の意味が解りませんでした。調べると出典は「史記」でした。
戦国時代、弱小国趙には「和氏の璧(かしのへき)」という国宝がありました。強国秦は「和氏の璧」を奪おうと画策します。趙国は、無下に断ることが出来ず、使者として食客の藺相如(りんそうじょ)を秦国に派遣しました。強国秦は趙との約束を反故にして「和氏の璧」だけを奪おうとしました。それを防いだのが藺相如でした。
帰国後、藺相如は趙国の英雄となりました。しかし、趙の歴戦の英雄廉頗(れんぱ)将軍は気に入りません。自分たちは、戦場で命をかけているんだぞ、藺相如は口先だけの男じゃないか。何様だ、と公言します。藺相如は、廉頗将軍と対立しないように廉頗将軍を避けるようになりました。すると、藺相如は臆病者だとの評判がたち、側近達も離れて行きました。
しかし、藺相如が廉頗将軍を避けていたのには理由が有りました。それは「強国秦が趙を攻めて来ないのは、私と廉頗将軍がいるからだ。もし、私と廉頗将軍が争ったら、秦の思う壺ではないか。私は、廉頗将軍と対立するわけにはいかない。」
廉頗将軍は藺相如の真意を知り、自らを恥じました。そして、自らの体に鞭を打ちながら藺相如宅へ謝罪に行きました。その時の言葉が「刎頸の友(ふんけいのとも)」です。あなたの為なら、頸(くび)を刎(は)ねられても悔いはないと。
因みに私は高校二年生の時に、田中角栄の初公判を傍聴しようと学校をサボって東京地裁に傍聴券を求めて2時間以上並びました。一月の寒い日でした。私の直前までTV局の方がインタビューに来たのでドキドキしたのを今でも覚えています。
もしインタビューされたらどうしようかと。でも、頭の中では何かカッコイイことを言ってやろうと考えていました。「学校の授業より、一国の宰相の初公判を傍聴することの方が価値があると思い、学校をサボりました」と堂々と答えようと。
【歴史】オマハの賢人ーウォーレン・バフェット 刎頚の友
刎頸の交わり~ 故事来歴はそうなんですか? へぇ~勉強になるなぁ~😊
角栄と小佐野の交わりは~ もう少しドロドロしてそうですよね~ 札束が飛び交って~💦 故事に失礼千万~
でも、学校をさぼったんですか? 刎頸の交わりを見定めるために?👀 高校2年生で? 担任の先生は黄先生でしたか?慎先生でしたか? 後で報告しておきます😂
かっこいいーー❗なんかかっこいー❗🤣💕
私の高校生の時は、どうやって「帝京」をさぼるか、帰りになに食べようか、さーて今日は何時間目に寝ようか、さもなくばベランダでの女子トークに花が咲いたり。そんなでした。💦
もちろん「ロッキード事件」「田中角栄」「記憶にございません」くらいは知っていたけど、掘り下げようとは思わなかったな~。
物知りさん、かっこい~💕
結果的に傍聴はできたのでしょうか? ロッキード裁判の初公判なら希望者が多くて傍聴券をもらっても外れる人が多かったはずです。『田中角栄研究』を書いた立花隆は公判を傍聴するため学生アルバイトを使ったそうです。
傍聴クジは、割り箸の長いのを引きました。結果は、ハズレでした。当日は、赤尾敏と立花隆が仲良く話しているのを見て違和感を覚えました。他の刑事事件を傍聴しました。
立花隆は取材の一環と思われます。
話さないと探れないので。
それにしても凄い高校生ですね。🤣