過酷な労働に怒りが爆発
アジア太平洋戦争による労働力不足を補うため、たくさんの朝鮮人が日本へ来た。中には本人の意思に反した連行もあったし、また、植民地支配によって朝鮮では生活できなくて仕事を求めて渡って来た人もいる。
私は韓国各地で、浮島丸の乗客だった生存者たちから1997年に話を聞いている。消息が判明していた70人の中から、なるべく異なる体験をしている人に会いに行った。
全羅北道鎮安郡(チョンラプクドチナングン)の孫東培(ソン・ドンぺ)さん(1916年生まれ)の家は、朝鮮の伝統的様式の農家だった。
「徴用されたのは1944年5月15日でした。夜中の2時に面(日本の村にあたる最下級の地方行政団体)の書記と区長ら4人がやって来ました。寝ているところを叩き起こされて、そのまま連行されたんですよ。私には3人の子どもがいて、両親の面倒も私がみていました」
鄭基永(チョン・ギヨン)さん(1927年生まれ)は、17歳の時に連行された。「私はまだ徴用される年齢ではない」と日本人の労務主任に言ったところ、「バカヤロー!」と怒鳴られて頬を叩かれた。そして、「行かなければお前を刑務所に入れて、父親を徴用するぞ」と言われた。
鄭さんは1944年12月22日に天安(チョナン)を出発し、「日本通運大湊支店」へと送られた。船から大湊線の汽車へ荷物を積み替えるのが仕事だった。
金泰錫(キム・テソク)さん(1919年生まれ)は、徴用された時は結婚していて3歳の子どもがいた。逃げようとしたものの、警察官が見張っていたので断念。下関で乗せられた列車の中で「大湊海軍施設部」へ行くことを知らされ、海軍の三沢飛行場で働いた。
徴用されていた時に、三沢飛行場に近い古間木駅(現在の三沢駅)前の写真館で撮った写真が残っている。浮島丸の乗客たちは沈没時に荷物を失ったが、これらの写真は家族に送っていた。
同じく、三沢飛行場へ送られたのは朴載夏(パク・チェハ)さん(1923年生まれ)。飛行機を隠すための掩体壕(えんたいごう)や防空壕を掘るのが仕事だった。
「重労働なのに、1分以内で食べ終えてしまうほど食事の量が少ないんですよ。月1回の外出日には古間木駅前へ行ってうどんを何杯も食べました。後で腹痛を起こすのを承知で、20杯も食べる人さえいたほどです」
過酷な労働と約束違反に対し、怒りを爆発させる朝鮮人労働者たちもいた。忠清北道忠州(チュンチョンプクドチュンジュ)市で金昌植(キム・チャンシク)さん(1921年生まれ)と会った。
「面の兵事係が持ってきた徴用令状には、青森県の海軍施設部で働くようにとありました。三沢飛行場で整地作業をしていた時、体格の良い者だけが選ばれて岩手県の砕石場へ送られたんです。飛行場建設で使うための岩を砕くという重労働でした」
米軍による爆撃も受けた。雪の中での作業なのに、ノルマを達成できないと体罰を受けた。しかも、「ここでの作業は6ヵ月間」という約束が守られなかったのである。
「まだ雪がたくさん残っている1945年3月のことでした。みんなの不満がついに爆発したんです。事務所や食堂を叩き壊し、そこにいた日本人を半殺しにしました。盛岡から憲兵隊が30人ほどやって来て、15人くらいの仲間を連行して行きました」
日本国内で逃げ切ることは不可能なのを百も承知で、反乱を起こしたのである。朝鮮人労働者たちが置かれていたのは奴隷のような状況だったのだ。
1945年6月30日、秋田県の花岡鉱山で中国人労働者たちが蜂起した。「花岡事件」である。
中国から強制連行された986人は、過酷な労働や少ない食事、虐待による死者の続出に耐えかねたのだった。警察や憲兵隊などによって鎮圧され、事件後の拷問によるものも含め418人の中国人が死亡した。
下北半島で朝鮮人たちに過酷な労働をさせてきた者たちは、仕返しされないかと戦々恐々としたことだろう。その「花岡事件」から2ヵ月も経たないうちに戦争は終わった。
へぇ~ こんな事件もあったんですね~ しらなんだぁ~😢勉強不足だな~
しかし、真相解明して欲しいね~
そんな簡単に爆発したり、沈没するわけ無いもんね~💦
誰かが、何かを、隠している~👀 名探偵コロンボにでも依頼すっぺ👏