GHQの航行禁止命令
実は22日に出航した浮島丸は、乗組員が船を航行不能にしなくても釜山港までたどり着くことはできなかったのである。
8月20日、「連合国軍総司令部(GHQ)」は日本政府へ、8月24日以降の大型船舶の航行禁止を要求。それを受けて大本営海軍軍令部は21日、「大海令(大本営海軍命令)第52号」を出したのである。
「八月二十四日一八〇〇以降、特ニ定ムルモノノ外、航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁スル」
翌22日午後7時20分と35分の2回にわたり、海軍省運輸本部長による電報が浮島丸艦長にも打電された。
「八月二十四日一八〇〇以降一〇〇総屯以上ノ船舶ハ航行ヲ禁止セラル。其ノ時刻迄ニ目的港ニ到着スル如ク努力セヨ。到着見込ミ無キモノハ右日時迄ニ最寄り軍港又港湾ニ入港セヨ」
浮島丸は大湊港を、その命令後の22日午後10時に出港。釜山港までは850カイリ(約1574キロメートル)あり、時速12ノット(約22キロメートル)の浮島丸は約3日間かかる。釜山港へ向かっても、24日午後6時までに着くのは不可能だった。
浮島丸は釜山への最短距離の航路ではなく、日本の沿岸に沿って航行を始めた。航海の途中で「24日午後6時」を迎え、どこかの港に入らざるを得なかったからだろう。日本海側にある唯一の軍港は、「舞鶴港」である。
乗客の中には船員もいた。金福道(キム・ポクド)さん(1923年生まれ)は日本敗戦までの約3年間、日本で「永英丸」の船員として働いた。瀬戸内海で石炭を運んでいたが、1944年末になって船は海軍に徴用。乗組員は、軍属扱いでそのまま乗船した。船は北海道へ移動し、人や物資を千島列島へ2度にわたって運んだ。
「浮島丸には出港直前に乗船しました。23日に、航路がおかしいと思ったんです。釜山港へ向かうなら、陸づたいではなく最短距離を行くのが当然でした」
そして浮島丸が舞鶴港へ入ると聞いた時、「さらに人を乗せようとしている」と金さんは思った。「永英丸」が大湊港で給油した際、この港の燃料が不足していると聞いたことがなかった。だから浮島丸が途中の港に入るのは、給油以外が目的だと思ったのだ。
「出航命令が出て、いよいよ出航だということになった時、たしか士官室で艦長、航海長、私ら古参の士官2~3人、それから下士官の代表格数人が協議し、出港はするが朝鮮には行かない、どこかの日本の港に入港するということを申し合わせたんですよ」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)
このように野沢忠雄さんは述べている。そしてNHK『爆沈』の中では、「ともかく舞鶴に入ったら朝鮮人は、舞鶴の方でなんとかしてもらおうと、兵隊たちはここでもって戦争すんだんだから解散しようと」と語っているのだ。
下北半島の朝鮮人を一刻も早く追放したい「大湊海軍警備府」は、浮島丸に出航を命じた。艦長や士官らはそれに従わざるを得なかったものの、釜山港へは行かないことを前提に船を出港させた。だが乗組員の多くを占める一般兵士たちは、「大海令」による航行禁止命令を知らず、浮島丸は釜山港へ向かっていると思っていた。
自暴自棄になった兵士たち
8月22日午後10時。真っ暗な海へと出航した浮島丸。捕まったら軍法会議で裁かれて重罪に処せられるのを覚悟で、出港前に脱走した者が数人いたという。兵士たちの規律は、いちじるしく乱れていたのだ。
船は釜山港へ向かっていると思い込んでいる一般の兵士たちは、自暴自棄になっていた。昼間から酒を飲んで、大騒ぎをしている者もいた。金東連さんは23日に、兵士が毛布や軍服・靴を海に捨てているのを見て声をかけた。
「『釜山に着いたら、自分たちは捕虜になってしまうからだ』と言うんです。『捨てるなら売ってくれ』と言ったところ、『金をもらっても何もならない』との返事でした」
そうしたことばかりか、上官からいじめられてきた兵士たちが、下士官に報復することまで起きた。リンチを受けて、動けないほどの大けがをした者がいた。海へ投げ込まれて、行方不明になった者もいたという。こうした下士官たちは、浮島丸沈没での乗員戦死者25人に含まれているはずだ。
韓国人生存者たちから、「南憲兵」という名前を何度も聞いた。「大湊憲兵隊」に勤務したこの憲兵軍曹は、本名が白(ペク)という朝鮮人だった。憲兵として、日本で暮らす朝鮮人を監視するのが仕事だった。
張永道さんは救助後に父親から、南憲兵についての話を何十回も聞かされた。父親は南憲兵と親しかったという。
「『この船は、途中の港に入ったなら爆破される』と、船内で南憲兵から聞いたというんですよ。父が『それなら、なぜこの船に乗ったのか』と南憲兵に聞くと、『乗船してからそのことを知った』と答えたそうです」
金東連さんの伯父も、南憲兵と親しかった。南は伯父に「この船は釜山まで行かない。途中の寄港した所で事故が起きる」と話した。だが伯父は、その話を深刻に受け止めなかった。金さんへ教えたのは、浮島丸が大湊港を出た後だった。
金さんによれば、南はこのことを清水参謀から聞いたという。清水参謀は南憲兵が日本人だと思っていた。だが、南憲兵が自分の家族を連れて浮島丸に乗船しているのを見て朝鮮人だと知り、「事故」が起きることを教えたという。
この2人の話は伝聞である。だが、南憲兵が浮島丸乗組員の中に船の爆破計画があることを知り、それを親しい人たちへ伝えたのは間違いないだろう。
※この記事は現代ビジネスに掲載されたフォトジャーナリスト伊藤 孝司氏の記事をそのまま掲載したものです。
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へぇ~ こんな事件もあったんですね~ しらなんだぁ~😢勉強不足だな~
しかし、真相解明して欲しいね~
そんな簡単に爆発したり、沈没するわけ無いもんね~💦
誰かが、何かを、隠している~👀 名探偵コロンボにでも依頼すっぺ👏