多摩川は昔から質が良い砂利が産出された地域で、1920年代には日本の近代発展に欠かせない資材として、特に関東大震災後の復興のためには、必要不可欠の資材でした。
見知らぬ日本での不景気にあえぐ同胞たちにとって砂利採取の事業は、生計を維持するための近道でもありました。
現在の調布市多摩川沿岸の国領、布田、小島などに自然と朝鮮人部落が形成され、立川飛行場(1921)府中競馬場(1933)府中刑務所(1935)多摩川河川改良工事(河口~二子橋1934)、村山・山口(狭山)貯水池、小河内ダム建設など、東京の水不足解消のためにの大規模な土木工事にも数多くの同胞たちが動員されました。
現在の南武線、京王線などの鉄道建設や青梅線(御岳~奥多摩間)工事と合わせて、奥多摩でのセメント採掘工事にも多くの同胞労働者たちが従事しました。
1935年、日本のアジア侵略に時を同じくして、多摩地域は調布飛行場や中島飛行機武蔵野製作所など、航空機産業の中心地として、多くの軍需工場が建設されます。
1944年にはアメリカ軍の爆撃を回避するための地下壕掘削工事が開始され、ここには多くの朝鮮人労働者たちが動員されました。
主たる軍事施設は中島飛行機武蔵野製作所(1937)、府中飛行場(1939)、小平・小金井の陸軍経理学校、陸軍技術学校建設(1944)などがありました。
その中でも中島飛行機の浅川と七生村の地下壕(1944)での労働は過酷を極めました。