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仁寺洞の地中から金属活字が出てきた

6月30日のニュースみましたか?ソウルの仁寺洞の地中から金属活字が出てきたという記事。以下紹介しちゃいますね。

「これは小石ではなく金属活字です!」

今月初め、ソウル都心の文化地区である仁寺洞(インサドン)のピマッコル再開発地区遺跡を発掘した首都文物研究院(院長 オ・ギョンテク)調査チームは、16世紀の建物跡から出た陶器壷の一部の内容物を確認して驚いた。壷の側面の穴から出てきた小石形の遺物のいくつかを洗浄してみると、金属活字であることが分かったからだ。興奮した調査チームは、壷内の土砂をすべて取り出して集中分析作業を実施した。結果は驚くべきものだった。壷の内部には何と1600個余りの金属活字が詰まっていた。

ハングル連鋳活字

専門家たちが調べると、15世紀、世宗(セジョン)大王の『訓民正音』創製当時に使われたと考えられる朝鮮初期の世宗~世祖(セジョ)代のハングル金属活字実物と、世宗が造った漢字金属活字である甲寅字と推定される活字が初めて発見されたとの判読結果が出た。この金属活字のうち一部は、ドイツ人グーテンベルクが1450年代に西洋初の金属活字活版印刷を始めた時より製作時期が数十年早いと推定される。

文化財庁は29日、首都文物研究院が発掘調査中であるソウル市仁寺洞79番地の「公平区域15・16地区都市環境整備事業敷地内の遺跡(ナ地域)」の16世紀建物跡から、壷に入れられた朝鮮前期の世宗~中宗(チュンジョン)時の金属活字1600点余りを発見したと発表した。文化財庁はさらに、世宗~中宗時代に製作し使用したと見られる自動水時計の時報装置部品である籌箭(チュジョン)と、世宗時期のものと推定される天文時計「日星定時儀」の部品、中宗~宣祖(ソンジョ)の時代に作った武器である銃筒類8点、銅鐘1点などの金属遺物も同じ遺跡から一緒に埋められた形態で発掘されたと述べた。

甲寅字と推定される漢字金属活字

まず目を引くのは世宗の時に製作された最も早い時期のハングル金属活字だ。一括出土した金属活字は、ハングルの金属活字を構成する大字、中字、注釈などに使われた小字、特小字がそろって出土した。特に『訓民正音』創製時期の15世紀に限定されて使われた「東国正韻式表記法」を使った金属活字が実物で確認され、ハングル金属活字を構成した様々な大きさの活字がそろって出土した点は画期的な成果と評価される。「東国正韻」は、世宗の命により申叔舟(シン・スクチュ)、朴彭年(パク・ペンニョン)などが朝鮮漢字音を正すために刊行した韓国初の標準音に関する本で、中国漢字音を表記するために使われた字素類を記録したのが特徴だ。この他にも、二つの文字を一つの活字に連結表記して、助詞の役割をした貴重本の連鋳活字が10点余り見つかった。

「日星定時儀」の主要部品である「周天度分環」

漢字活字も、現在まで伝えられた最も早い朝鮮金属活字である世祖時代の「乙亥字」(1455年・国立中央博物館所蔵)より20年早い世宗時代の「甲寅字」(1434年)と推定される活字が大量に確認され、学界を興奮させている。朝鮮前期の多種多様な金属活字が一カ所で出土した初めての事例といえる。ペク・トゥヒョン慶北大学教授とオク・ヨンジョン韓国学中央研究院教授は、「『訓民正音』創製当時の姿を確認できる国内最高のハングル活字と、世宗が造った漢字金属活字である甲寅字の実物が初めて見つかったという点で、韓国印刷文化史に名を残す発見だ。ハングル創製の実際の余波とともに活発化した当時の印刷活動を調べることができる重要な資料」だと評価した。調査チーム側は、金属活字の種類が多様で朝鮮前期の印刷本にのみ確認できた多くの活字の実物が追加で確認される可能性があるとみている。

陶器壷からは金属活字とともに世宗~中宗の時に製作された自動水時計の籌箭(チュジョン)と見られる銅製品が細かく切られた状態で出土した。銅製品は、銅板と玉放出器具に区分される。銅板にはいくつかの円い穴と「一箭」という文字が彫られている。玉放出器具は、円筒形の銅製品の両側にそれぞれかすがいとイチョウの葉形態の鉤が結びついているのが特徴だ。このような部品の形は、『世宗実録』において小さな玉を貯蔵し放出することで自動水時計の時報装置を作動させた装置である籌箭の記録と一致する。籌箭は、1438年(世宗20年)に製作された欽敬閣(フムギョンガク)玉漏(水時計)や1536年(中宗31年)昌徳宮(チャンドクグン)に設置した報漏閣の自撃漏と推定される。これまで記録のみで伝えられてきた朝鮮時代の自動水時計の籌箭実体が初めて確認されたわけだ。

活字が入れらていた壷の隣からは、昼夜間の天文時計である「日星定時儀」が見つかった。昼間には日時計、夜間には太陽を利用できない短所を補完するために星座を利用して時間を計った時計だ。『世宗実録』によれば、1437年(世宗19年)に4個の日星定時儀を作ったと伝えられる。出土遺物は、周天度分環、日キ(日陰)百刻環、星キ百刻環など日星定時儀の主要部品で、時計の輪の上面の三輪と見られる。現存する資料がなく、記録のみで伝えられてきた世宗時代の科学技術の実体を確認したという意味が大きいという評価だ。

天文時計の日星定時儀と銅鐘が土中からあらわれた姿
出土した勝字銃筒

小型火器で銃口に火薬と鉄丸(弾丸)を装填し火種を付けて発射する銃筒は、勝字銃筒1点、小勝字銃筒7点が出てきた。復元された大きさはおよそ50~60センチだ。彫られた銘文を判読した結果、癸未年勝字銃筒(1583年)と万暦戊子年小勝字銃筒(1588年)と推定される。職人の希孫(ヒソン)、末叱同(マルドン)として製作者が記録されているが、希孫は宝物に指定されたソウル大学博物館所蔵の「次勝字銃筒」の銘文でも確認される名前だ。万暦戊子年と彫られた勝字銃筒は、鳴梁海域でも確認されたことがある。銅鐘は、日星定時儀の下の部分で、数点の小片に分かれて発見された。砲弾をひっくり返した鐘形で、2匹の龍の形をした取っ手、龍紐がついている。隅花模様と蓮のつぼみ、小波装飾など朝鮮15世紀に製作された王室起源の銅鐘様式を継承していることが特徴だ。鐘の本体上部に「嘉靖十四年乙未四月日」という隷書体の銘文が彫られていて、1535年(中宗30年)4月に製作されたことがわかる。

調査地域は、鍾路(チョンノ)2街交差点の北西側で、漢陽都城(ハニャントソン)の中心部だ。朝鮮前期まで漢城府中部の堅平坊に属した所だ。堅平坊は、朝鮮前期漢城府中部8坊の一つで、司法機関の義禁府と王室宮家である順化宮、竹洞宮と商業施設の雲從街が位置した都城内の経済文化の中心地であった。遺跡では朝鮮前期から近代までの合計6個の文化層(2~7層)が確認される。金属活字などが出土した層位は、現在の地表面から3メートル下である6層(16世紀中心)部分で、建物跡の遺構と朝鮮前期と推定される磁器片や瓦片なども一緒に出てきた。

仁寺洞のピマッコル朝鮮初期建物跡遺跡の全景

金属活字を除く残りの遺物は、細かく切って破片にして陶器の壷の中と付近に埋めたと推定される。また、活字はおおかた完全だったが、熱で溶けて固着したものもある。製作年代が分かる出土品の中で最も時期が遅い遺物が、1588年を意味する万暦戊子年と彫られた小勝字銃筒なので、少なくとも1588年以後に埋められたことが確実だ。オ・ギョンテク研究院長は「1592年に勃発した壬辰倭乱(文禄の役)と時期が近く、当時戦乱が起きたため遺物を壷に入れて地中に埋め、避難させた可能性がある」と推定した。出土遺物は現在1次整理を終え、国立古宮博物館に移して保管されている。

2 COMMENTS

考古学~👀

考古学は夢がありますよね~💕
今後も新たな発見があって、わが民族の嚆矢を世界中に誇りたいと思います🙌

民族の誇り

学生時代に歴史の授業で金属活字。習いましたねえ。
近年は韓国ドラマでもやってましたよね。民族の誇り、こういうのを大事にしたいですね。

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