今日はポプラ事件があってちょうど45周年に当たる日だ。もう、そんなに月日が流れたのかと思うけど、この事件の発端と経緯を改めてウィキペディアからみてみようと思います。
※公平を期すため本文をそのまま引用します。
この事件の発端になったポプラの並木は、北朝鮮側によって共同警備区域内の「帰らざる橋」の近くに30 mにわたって植えられていたもので、事件当時は共同警備区域に置かれた監視所、そして朝鮮人民軍の監視所に囲まれた国連軍の監視所の視界を遮るほどに成長していた。
このため、国連軍は朝鮮人民軍に対してポプラの木の剪定を行うことを通告していたが、朝鮮人民軍はこのポプラ並木は金日成主席が手ずから植えて育てたもので現在もその指導下で生育しているとして、国連軍による剪定を認めなかった。
1976年8月18日に、韓国陸軍将校1名と国連軍のアメリカ陸軍将校2名、韓国人の作業員と彼らを護衛する韓国軍とアメリカ軍を中心とした国連軍の8名の兵士が、ポプラの剪定を行うため共同警備区域内のポプラ並木の元へ送られた。
彼らの行動は朝鮮人民軍によって監視されていた。共同警備区域に関する取り決めのため両軍とも武装していなかったが、米韓軍は剪定用にのこぎりとつるはし、斧を持ち込んでいた。
剪定が始まると約30名の朝鮮人民軍将兵が来て、指揮官が突如韓国軍および国連軍の指揮官に対して剪定作業の中止を要求したが、国連軍工兵部隊指揮官のアーサー・ボニファスアメリカ陸軍大尉はこれを無視し、剪定作業の継続を部下に命じた。
朝鮮人民軍側はしばらく静観していたが、その後増援の朝鮮人民軍兵士約20名が合流し人数で朝鮮人民軍が優位になった。その後再度の作業中止勧告が聞き容れられないと見るや、突然、「殺せ」の号令の下、韓国軍と国連軍の将兵に対して攻撃を始めた。
発砲はなかったが、約3分間に作業を指揮していたボニファス大尉とマーク・バレット中尉が殺害された。1人は斧で斬殺され、もう1人は棍棒で撲殺された。
韓国軍兵士はトラックで朝鮮人民軍の兵士に体当たりし、ボニファス大尉の体をトラックで守ったが、大尉は治療を受ける前に死亡した。彼らが殺害される様子は第5監視所から35 mmカメラ、また国連軍第3監視所からは映画用カメラによって記録された。
事件発生を受けて翌日の8月19日から朝鮮人民軍と韓国軍、国連軍の間で会議が開かれた。特に自国兵士が死亡したアメリカ軍は事件を重く受け、朝鮮人民軍に強く抗議を行い、ポプラの木を剪定ではなく、伐採することを主張した。
その後、国連軍はポプラの木を伐採すべく、アメリカ民話に現れる巨人の木こりに因んで名づけられたポール・バニヤン作戦を発令し、事件から3日後の8月21日午前7時に決行された。
ぼんやり記憶にあったけど~ こんな事件だったんですね~😎
しかし、朝鮮人民軍は勇敢ですね~👏 あっぱれ~
それでも伐採する国連軍も、しつこいと言うか、ズルいと言うか~💦
さっさと韓国から引き揚げやがれってんだ~ この野郎~😟 てめぇらの土地じゃねぇ~んだよ~怒 怒 怒~
でも殺さなくても‥‥。
この事件がなかったら…
「在日学生芸術団」としてウリナラに訪問した28期がいたと思います。
高2の時の事件なんですが、次の年(高3)にウリナラ訪問がほぼ決まってたらしいんですね。
ただこの事件の影響で1年延期されて一つ下が主流の学生達がウリナラに行きました。😭😭😭
この事件を聞くと思い出します。
ん〜…行きたかったな〜
(選抜されたかは解りませんが…(笑))
祖国解放戦争/韓国戦争が「休戦」中であることを、まざまざと思い知らされる事件でした。現在、戦争はまだ終わっていないのに、それなりに綱渡りのような「平和」が続いています。綱渡りは疲れるけれど、戦争よりはましです。ウクライナとロシアのニュースをみるにつけ、その思いを強くします。