元々は中央アジア(現在のトルキスタン)に住んでいたトルコ人ですが、モンゴルに追われ西への移住を余儀なくれました。そしてオスマン一世によって創られたのがオスマン帝国です。当初はイスラム教の弱小国の一国に過ぎませんでした。戦争の天才ティムールとのアンカラの戦いでは、国家消滅の危機にまで追い込まれました。
しかし、征服王の異名を持つメフメト2世の登場により、千年王国である東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルの陥落に成功し、東ローマ帝国を滅ぼしました。向かうところ敵なしのオスマン軍は、北はハンガリー、西はエジプト、東はインドにまで領土を広げました。
世界最大の領土を誇ったのはモンゴルですが、モンゴル帝国は150年で解体しました。しかしオスマン帝国は、実に623年ものあいだ存続したのです。では、この大帝国はなぜ滅んたのでしょうか?それは、外交的な失策によるものでした。たった一つの条約が大帝国を崩壊に導いたのです。
地中海の覇者となったオスマン帝国は、神聖ローマ帝国の征服を目論み、ウィーンを包囲します。しかし、流石にウィーンを陥落させることはできませんでした。当時の欧州情勢は、フランスの西にスペイン帝国、東に神聖ローマ帝国が君臨し、フランスを圧迫していました。オスマン帝国は、神聖ローマ帝国の敵であるフランスと同盟を結び、神聖ローマ帝国を滅ぼそうと考え、フランスと条約を結びました。その条約が「カピチュレーション」です。
でもこの条約が、大帝国を崩壊へと導くことになったのです。
「カピチュレーション」とは、フランスの商人に特権を与えるものでした。すなわち、フランス商人がオスマン帝国内で自由に活動できるよう、フランス商人にオスマン帝国の法律の適用を免除したのです。
すると、フランス商人が数十人、数百人と居住する地域は、事実上の治外法権となってしまうのです。フランスから見るとフランス商人の居住地域は、植民地同然となったのです。
その後、欧州各国はオスマン帝国と次々と「カピチュレーション」を締結、オスマン帝国は崩壊への道を歩むことになるのです。神聖ローマ帝国を滅ぼそうと勇み足で締結した条約。この外交的な失策が結局は大帝国を滅ぼす遠因となったのです。
因みに、現在のトルコの建国者ケマルは、外交の天才でしたし、現大統領のエルドアンも外交的に異彩を放っているように思えます。
歴史を教訓として、外交の重要さを認識しているように見受けられます。
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前振り~ リードの部分が弱いのか? 自分が勉強不足なんでしょうが…💦
全然チンプンカンプン👀😢
へぇ~ そうなんだ~くらいで💦
もう少し勉強しなきゃ😞
朝鮮の歴史、日本の歴史、世界史、恐竜の時代から現在までの地球史、宇宙の世界も。
歴史って年数も幅も奥も深すぎて気が遠くなるけど、それぞれ面白い⤴️
外交的失策。
後々、取り返しがつかなくなることってありますよね~。
歴史はまるで「囲碁」のようですね。