ある日、南大門市場の近くで骨董店を営んでいた裵成寛は、京畿道龍仁に住む仲買人の金聖培の案内で、忠清北道槐山郡七星面外砂里を訪ねた。その地の農夫である金俊亨が、廃寺から不法に持ち出した、高さ三・五メートルに及ぶ高麗初期と推察される浮屠(僧の舎利を奉安した塔)を当時のお金二五〇円で買った。
彼は夜陰に乗じて浮屠をトラックで店に運び、黄金町(現乙支路)で骨董店を営む竹内八百太郎に二七〇〇円で転売した。
数日経ずして韓屋二軒ほど儲けた成寛は、お金を稼ぐのは大したことはないと高を括った。そして、すぐにでもお金持ちになれると夢をふくらませた。買い取った竹内は、日本へ持って行けば一〜二万円になると踏み、同じようにして手に入れた浮屠をすぐ仁川へ運んだ。
高麗時代の浮屠は、仏教が盛んだった時代に造られたために、形と彫刻がとても美しかった。高僧の涅槃を追慕するために、石工たちは心を込めて雲と蓮の花を刻み込んでいた。現在韓国に残っている新羅と高麗の浮屠のほとんどが宝物に指定されているのも、その美しさと雄壮のゆえである。
廃寺とは、李朝の崇儒抑仏政策の結果、廃墟となった新羅と高麗の寺剎のことを言う。伽藍は火事などで焼け崩れて廃墟になっても、新羅と高麗の石工たちによる丹念な仕事である石仏の塔や浮屠は、地域の住民たちによって守られていた。国を失い、主人を亡くした廃寺の悲しさとはこうしたものなのか。
しかし、狭い骨董界ではそういう悪事はすぐに知れ渡った。この話を聞いて全鎣弼は、出土経緯がはっきりしている浮層が、日本に持ち出されてはならないと思い、一万二千円の巨額のお金で浮層を買い戻すのであった。
仁川港では既に高僧の霊魂が安らかに眠っているはずの浮層の下台石、中台石、上台石が一つずつ解体され、船に積む用意をしていた。起重機のてっぺんに空中で止まっている浮層を見て、京城を出発する前に竹内が船舶会社に連絡しなかったら、とっくに船倉に運び込まれていたかも知れなかった。
要は、お金儲けも「節度」を守りなさいってこと? だよね~
でも、他にも文化財が他国に流失したケースはあるんだろうね~
うちの近所のお寺にも似たようなもの見かけるよ~💦👀
まぁ~ 真似して作ったものかもしれないけど~