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クリスタル・ケイの母シンシア『C.C.O』に「私も歌いたい」歌を心の支えに“大逆転”

在日三世として東京に生まれ、人気シンガー、クリスタル・ケイ(37)を女手ひとつで育てたシンシア(60)。小学校から朝鮮学校に通い、高校1年生のときディスコ・デビュー。本格的に夜遊びを覚え始める。


「当時、私は中華街にあった喫茶店でアルバイトをしていたのですが、そこの店長さんに、『今度連れていってやるよ』と言われてディスコに行き、すっかりその楽しさに目覚めてしまった。横浜駅のK&E、中華街のジャガー、元町のアストロ、本牧のリンディ、山下町のBeautiful People……。

当時横浜界隈にはディスコが大小たくさんあって、あちこちへ繰り出すようになりました。他にもソウルトレイン、アップル、カウベル……懐かしいです。ブラックミュージックばかりかけるディスコもあれば、オールマイティーにいろいろな楽曲をかける店、テンポの速い音楽で盛り上がるところと、店によって聴ける曲もまた違う。

当時のディスコは生バンドが演奏をしている店が多く、あの音楽に埋もれる感じがなんともいえず心地よかった。次第に横浜だけでは飽き足らなくなり、六本木のレオパードキャット、スタジオワン、ソウル・エンバシー、ジェスパ、キュー、赤坂のムゲンと、東京の名店といわれるディスコにも足を延ばすようになりました」

平日は学校が終わると喫茶店で働き、週末はディスコに繰り出した。日々はディスコを中心に回っていた。

当時の人気バンドを前に「私も歌いたいの」と

「アルバイト先の喫茶店は関帝廟の近くにあって、そこの常連客だったのがC.C.O(獅子王)。当時横浜のディスコで人気を集めていたバンドで、彼らが演奏するとお姉さんたちがキャーキャー黄色い声で騒いだものでした。

C.C.Oが店に来たときのことです。『私も歌いたいの』と彼らに言ったら、『へー、何が歌えるの?』と、ちょっと小ばかにした返事が返ってきた。今振り返ると、私もいい度胸だったと思います。

『えーっと、アース・ウィンド・アンド・ファイアーかな』と言って、その場でサビを歌ってみせました。まったくのハッタリだったけど、『じゃあ歌ってみなよ』なんて言われたら、こちらも屈するわけにはいきません。楽曲は忘れもしない、『リーズンズ』です。

歌ってみせたところで、向こうは『ふーん』なんて感じでしたけど。彼らはプロのバンドで、16歳の素人の小娘に対して当たり前の反応です」

ブラックミュージックと出会ってからは常に音楽が

小学3年生のときブラックミュージックと出会い、それ以来、常に音楽が身近にあった。カセットテープをすり切れるほど聴き、英語のアルバムを意味もわからず丸ごと覚えた。気づけば自身も歌うようになっていた。

「“私も歌いたい!”と本気で思うようになったのは中学生のころ。スタイリスティックスのコンサートがいちばんのきっかけだったと思います。ただそれ以前にうちの家族も歌と踊りが好き。小さいころから親戚の集まりがあると何かにつけ大人たちの前で歌わされていましたね。

私が思うに、過去のつらい歴史もあった中で、歌を心の支えに“明日も頑張ろう”と耐え忍んできたような気がします。C.C.Oには軽くあしらわれはしたけれど、私もそんなものだろうなと受け流していました。ところが、思いがけず大逆転。C.C.Oに『ウチで歌えよ』と言われたのは、その数年後のことでした」

週刊女性2023年3月14日号