先週、朝日新聞の「けいざい+」というコラムがありますが、そこに「ある在日 技術者の半生」 という記事が載っていました。 仙台に住む任左彬さんの記事です。とても良かったので説明します。
仙台市郊外の国道沿いに、4年前に廃業して今は閉鎖された工場がある。その看板は「豊洋電子精機」という工場だ。 1974年に創業し、電子回路と精密機械を組み合わせた「メガトロニクス」と呼ばれる技術で、高性能の計測器や自動制御装置を手掛けてきた会社だ。 松下電器産業、アルプス電気、キャノン、リコー、中部電力、東京電力 など大企業や関連会社が、主な取引先であった。 高性能の品質管理の問題に悩んだメーカーが、この町工場の技術力を頼って注文したのだ。
この日本のものづくりの一端を担ってきた元社長の豊川光正(任左彬)さんは今年87歳になった。
任左彬さんは、両親のもと大阪で生まれた。戦後まもなく父親が死亡し、母親が廃材をリアカーで引いて売りながら、8人の子供を育てた。夜間の工業高校で学びながら医療機器の町工場で働いたのが任左彬さんの原点だ。 だが、いくら努力しても大学進学や大企業への就職は難しいのが現状であった。
そんな任左彬さんが22歳の時、在日朝鮮人の帰還事業が始まるとの知らせを聞いた。任左彬さんは共和国が希望の星に思えたのだ。すぐに帰国を決意し、兄との別れを告げるため仙台に向かうが、兄や親戚たちに止められてしまった。「行くのは待て」と。
任左彬さんは兄が経営する仙台のキャバレーで、夜警のアルバイトを始め、そこで照明担当の日本人技師と知り合い、彼が立ち上げた事業に携わる。この会社では、東北大学の研究所が実験のため特注する電子機器作りを得意とした。
10年余りが過ぎ、任左彬さんは独立。 磁気テープの品質向上に関わる技術を磨き、極薄のテープをさらに薄く、強く、不良品を出さずに、効率的に作る技術を磨き、1万分の1ミリ単位の様々な計測機を開発し、大手メーカーに収めた。日本製のオーディオカセットや ビデオテープの品質を陰で支えてきたのだ。
しかし1988年、一番の取引先の注文が突然止まる。それは前年に共和国を訪問したことが引っかかったのだ。ピョンヤンに渡った親戚に会いに行っただけなのに、その情報をつかんだ日本当局が圧力をかけたのではないかと任左彬さんは推し量る。
一朝鮮人としての任左彬という人間と、技術屋の豊川光正とは、厳密に使い分けてきたつもりだったが、在日朝鮮人への差別がいかほどかは、身に染みている。 約2億円あった年収の大半が消え、従業員15人ほどの会社はピンチに陥る。でもそこで任左彬さんの反骨心に火がついた。
任左彬さんは次第に大学研究室からの受注に軸足を移し始める。猿の脳に電極針を刺し、腕の運動との関係を調べるといった実験装置は、任左彬さんの得意分野の一つである。 また日本の科学技術振興機構のプロジェクトや、電力会社との共同研究にも参加する。発電タービン内部の微細な亀裂の深さを測る機器などは、各地の発電所で使われてきた。これまで作り出した装置は1200機種に上る。
日本と共和国の国交が正常化し、南北の統一が実現した時には、祖国で花を咲かせたいという夢も持ったという。しかし期待はいつも裏切られた。 共和国による日本人拉致問題が未解決のまま、国際社会の反発をよそに今も弾道ミサイルの発射を続ける共和国との対立は深まるばかりだ。夢は叶わぬまま、人生は終わりに近づいたようだ。任左彬さんは4年前に会社を閉じる。
亀裂測定器の技術は東京の会社に有償で譲渡し、膨大な技術資料も整理し、全てを片付け最後に記者にこう話したそうだ。
「 国家の狭間でもがきながら、日本の技術立国に陰ながら貢献した。そんな在日朝鮮人の技術屋がいたことを、知っておいてほしい。 後輩たちよ、この地で生まれた以上、日本社会に役立つ存在であれ。それが夢の実現につながるはずだから」
このような在日の技術者は、他にも大勢いるんじゃないのかな?
でも、帰国しようと仙台まで行って、足止めを食らって、そこから這い上がると言うのがドラマですね💦おそらく帰国してとしても、その探究心は無くならずに、何かしらの研究者になっていたと思うんだろうけど👀在日の科学者協会が、どんどんこのような人材の紹介をして欲しいなぁ👀次の世代の励みになると思う💕
人生を振り返ってみたら、あの時、帰国しないで正解だったとも思いますね。
技術やアイデアを持っていたとしても、あの国では成功を納めてはいなかったでしょうね。
それにしても豊川さんは仙台にたくさんいるね~。
立派な仕事をされましたね。在日の誇りです。どうかお元気でお過ごし下さい。
東北にも在日朝鮮韓国人多いんですよね。
主人(一応いる🤭)は岩手出身ですが、焼肉屋さんめちゃ多いです。