日本から北朝鮮に拉致された人のうち、5人が帰国してから2022年で20年となった。この年、被害者の1人で新潟県佐渡市に住む曽我ひとみさんは、これまで以上に精力的な発信を行った。報道各社からの質問に1社ずつ対応して丁寧な返信をくれ、介護施設での仕事の傍ら、何度も講演台や街頭に立ち、全面解決を訴えた。
ただ、共同通信を含めた報道各社の「帰国20年」の特集は、過去の記事との重複を避けるため、主にここ数年間の政府交渉の推移と被害者の状況に焦点が当てられる内容が多い。
曽我さんが何度も繰り返していた「拉致問題を知らない、若い人たちに伝える」という願いに、メディアは応えられているのだろうか。曽我さんの帰国当時、4歳だった私は疑問に思い、壮絶な経験を改めて取材。これまでの発言や手記から半生をたどった。(共同通信=湯山由佳)
▽幼少期。貧しくとも笑顔だった母との思い出
佐渡市で生まれた曽我さん。楽な暮らしではなく、母ミヨシさんは一家を支えるため家事と工場勤め、夜の内職を両立していた。脳裏に浮かぶのは、余裕があったわけではない生活に愚痴の一つもこぼさず、いつも笑顔を絶やさない母の姿だ。
保育園の帰り道、迎えに来たミヨシさんが包んでくれた角巻き(外套)の温もり。自分の弁当のおかずは辛い漬物だけでも、遠足に出かける娘の弁当にはウインナーや卵焼きを入れてくれた。「母ちゃんの弁当はなんでこんなに少ないの。漬物だけなの」とたずねると、ミヨシさんは「漬物が辛いからごはんがいっぱい食べられるんだよ」と笑っていた。
浴衣で盆踊りに出かける小学校の友人と同じ浴衣姿がいいとねだると、少し困った顔をしながらも夜なべして浴衣を作ってくれた。自分のことは後回しで、いつも子どもを第一に考えてくれる母親だった。
曽我さんが定時制の高校に通いながら、佐渡市内の病院で准看護師として働いていた当時、患者の脈を測りやすいと選んだ男性向けサイズの腕時計は、母が贈ってくれたものだ。この腕時計は、拉致された後、くじけそうになる度に叱咤激励してくれる母同然の存在になった。
▽2人で買い物中、突然船に乗せられ
1978年8月12日。当時19歳の曽我さんは普段、病院の寮で暮らしていたが、土曜日だったこの日は、いつものように実家に帰った。夜ごろになり、ミヨシさんと先祖の墓前に備える赤飯を用意していたが、足りないものに気づき、2人で近所の雑貨店まで買い物に出かけた。
2人で家路に戻る途中、見知らぬ男性3人に後ろをつけられ、自宅まであと100メートルほどの場所で襲われた。いきなり頭から南京袋をかぶせられ、手足は拘束。近くの川につけていた小舟に乗せられた後、沖に待機していた別の大きな船に移された。
袋を外されたのは船の上。曽我さんは当時の状況をこう話す。「窓もない暗い船室に押し込められていたので、外の様子も知ることができませんでした。身に起きた出来事にただ恐怖するだけで、声を殺して泣くしかありませんでした」
船室に母の姿はなかった。泣き疲れて目を覚ますと、13日の夕方を回っていた。船の甲板から外の景色を見ると、見覚えのない港に着いていた。日本語を話す女性に場所を問うと、「ここは北朝鮮という国だ」と答えた。
別の男性に母の安否を尋ねると、こう言われた。「母さんは日本で元気に暮らしているから、心配しなくていい」(※ミヨシさんは日本政府が認定する拉致被害者だが、北朝鮮側は現在まで、「未入国だ」と主張している)
▽横田めぐみさんとの出会いと別れ
拉致されてから「招待所」と呼ばれる施設での生活が始まった。そこで、曽我さんよりも先の1977年に13歳で新潟市内から拉致された横田めぐみさんと出会う。通算で8カ月間、一緒に生活した。
曽我さんが振り返る当時の状況はこうだ。
「招待所での生活が始まって数日たったある日、組織の別の幹部らしい人が来て、別の招待所に移ると言われ、慌ただしく引っ越しました。招待所に着くとある女の子がいました。彼女は私を笑顔で迎えてくれました。横田めぐみさんでした。ちょうど私の妹と同じくらいの年でした。ずっとひとりぼっちだったせいなのか、彼女とはすぐに仲良くなりました。あのときのめぐみさんの笑顔は今でも忘れることはありません。いつもにこにこと、あの可愛らしいえくぼを見せていました」
二人っきりの時や皆が寝静まったときに、誰にも気付かれないよう小さな声で日本語で話した。内容は家族や友達、学校のこと。外出の機会があると、少し離れた場所で日本の歌をこっそり歌った。一緒にアイスを食べたこと、押し花を作ったこと、一緒に描いた絵も思い出だ。
ただ、二人が一緒に暮らせたのはわずかな期間だった。招待所を出た後、めぐみさんとは、外貨ショップで偶然会ったことがある。元気な姿だったと記憶に残っているが、その後、再会はできていない。
▽結婚するも北朝鮮での過酷な生活は続く
曽我さんは1980年、北朝鮮で結婚した。相手は在韓米軍の陸軍軍曹で、北朝鮮に亡命してきたチャールズ・ジェンキンスさん。曽我さんの英語教師だった。その後、2人の娘を授かった。
結婚後は「特別地区」と呼ばれる場所で生活したが、監視下ではなかなか単独行動が取れない。指導員に連れられ外貨ショップに買い物に行くことはあったものの、どうしても足りないものは闇市にこっそり買いに行くしかなかった。指導員に気付かれれば外出が厳しくなる。毎回、神経を張り詰めていたため疲れた。それでも「安いものを求めるのはどこの国の主婦も同じ」。ある日、闇市で卵を買うと、ひよこになりかけのものや、どろどろに腐ったものが混ざっていた。食べられそうなものは買った個数の半分だったが、目当てだった家族の誕生日ケーキはどうにか焼くことができた。
つらかったのは冬の生活だ。北朝鮮は極寒。大雪になったり氷点下になったりするのは故郷の佐渡でもあったが、生活の大変さは全く違う。
「発電技術が未発達で、燃料となる重油なども足りず、一日に何度も電気が止まるのです。ある氷点下の日、水洗トイレが凍り、あまりの寒さに氷が膨張し、トイレが破裂してしまいました。またある日、お風呂に入れないので、お湯を沸かしてたらいに移し、素早く体を洗うのですが、あっという間に冷水になってしまうのです。北では眠くても寒すぎて眠れないのです。そんなとき、家族で固まって寝るのですが、みんなそれぞれに靴下を何枚もはき、着られるだけのセーターや防寒着を着て、着ぶくれした状態で寝たものです」
▽支えてくれた家族の存在と現地の市民との交流
苦しい生活の中でも、希望や喜びはあった。支えになったのは夫と2人の娘の存在。曽我さんは「自分が1人ではなくなったことがとても嬉しかったです」と振り返る。
子育てをする中で現地の人々の優しさにも触れた。ある日、娘たちが通う学校で運動会があった。北朝鮮でも親は子どもたちの応援に行くが、曽我さん夫妻は拉致された身のため住居地以外への外出が禁じられ、見に行けない。困るのは昼食時だ。生徒は親の元に集まるが、曽我さんの娘はそれができない。
心配していたら、帰ってきた娘たちが教えてくれた。ある生徒の母親と思われる人から「一緒に食べよう」と手招きされ、ご飯も分けてもらったという。食料事情が良いとは言えない中での好意に、曽我さんはとても感心した。
「(拉致を実行した)組織と無関係な人は、普通の人だったと改めて気付いた」
曽我さんは後になって日本に帰国し、講演などをする際には、北朝鮮の一般市民に対する気遣いや、感謝の気持ちについても言及している。
「自由こそなかったのですが、毎日がつらく苦しいものだった訳ではありませんでした。現地で暮らしている人たちはごく普通の人たちなのです。とは言っても、特別地区に住んでいたので、現地の一般的な状態を一部しか知りません。私たちと関わりを持っていた指導員はとてもいい人たちでした。確かに生活レベルは日本では考えられないくらい低いもので、物資なども常に不足している状態です。一部の特権階級の人々の犠牲になっているのは事実ですが、そんな中でも北朝鮮の人々は生き延びているのです」
北朝鮮での生活がこのまま続くと思われた2002年、事態は急転する。日朝首脳会談が行われ、拉致被害者5人が帰国することが決まった。思いがけない喜びがあふれた一方、新たな苦悩に直面することになる。
共同通信社 湯山由佳氏の記事をそのまま掲載しました
(後編につづく)
もう20年の歳月が流れたんですね~💦 まだ未解決だけど~
曽我さんがタラップから降りて、熱烈なぶっちゅーの印象が残ってます👀
まもなく、ジェンキンスさんとは別れたとのニュースを見ました👀
しかし、変な事件ですよね😢 とっとと解決しちゃえば良いのに~
私たちに在日にとってはとってもショッキングな事でしたね。
そんなことはするはずがないと信じていたのが一瞬にして崩壊したんだから…。
まあ、指導者が愚かだったって事に尽きますね。