「ご来光」
それはまさに大自然が織りなす一大イベントであった。
東側の斜面は人、人、人で埋め尽くされている。寒い中の場所取りは相当早い時間から始まっていたようで、私たちが山小屋を出た時には人々の後頭部しか見えない有り様だった。人垣から離れた所でも段差のある高見は入り込める余地もない。私たちはかなり後ずさりして登山者がまばらな場所に立ち東の彼方を見つめた。
快晴であった。天上は星を散らした黒い空が広がっている。東に向かうにつれ何とはなしに薄れていくような、紫から青に変わっている。やがて赤みがにじみ、徐々に広がり出した。雲のスジが確認され灰色の雲間から金色の光芒が輝きだす。それが白い光線に変わり赤い空を追いやりながらこちらに伸びてくる。
湧き上がる歓声と拍手、鳴り響くシャッター音、両手を合わせて必死に拝んでいる人々…。私もガラケーでアングルを取るものの場所が悪く、人の後ろ姿や後頭部を画面から外すことができない。それでも構わずに何度もシャッターを切った。
陽光はあっという間に雲間を抜け、朝焼けを拭いこなたを照らし、感極まった人々の表情を橙色に染めていく。
我に返ると体は芯まで冷えていた。
「一服して下山するから。」
娘に声をかけ私は人々の群れから大きく外れた。相変わらず臭気が漂う中、手がかじかみタバコの火を付けるのに苦労した。
富士山は日本一にふさわしい。日本で一番高く、一番空気が薄く、一番寒く、一番日の出が早い。そんな思いを噛みしめながら吸ったタバコは美味かった。
午前5時過ぎ、私たちは下山路を示す矢印に沿って下山した。その時になって私は登山路と下山路のルートが違うことに気が付いた。考えてみればこれだけの登山者たちが山頂で折り返し、登ってくる人とすれ違いに下山することは危険極まりない。転倒、滑落、落石… 想像しただけでも恐ろしい。
昨晩、ガイドに反発したことを思い出した。後悔し反省した。しかし「なぜガイドはこのことを説明してくれなかったのか」みたいなあらたな反発が湧いてきた。
(でも、やっぱり私が悪かったのか?)
下山路は幅2mほどの砂利道で急斜面を横切りながらジグザグに切ってあった。1歩下る度に靴が細かい砂利に喰い込み踏み跡がくっきり残った。急斜面で転倒してもケガをしないように施されているのだ。その道を多くの下山者が踏み荒らしていく。彼らに追い越され、追い抜いたりしながら私たちは自らのペースで下っていく。陽光に益々ぬくもりが感じられ体の中から寒さがどんどん逃げていく。
下山路の脇にブルドーザーがうずくまっていた。近づくにつれ全体がサビた廃車の残骸に思えたのだが、富士山の急斜面と対比して奇異な風景だった。
(何で?)
しかし、その脇を通りながら気がついた。ブルドーザーはバリバリの現役だ。そもそも毎日のように押し寄せる登山者の数がよっぽど異常事態であって、転落や負傷事故を起こさず、踏み荒らされた下山路を整備するために配備されていたのだ。
ジグザグ道の折り返し地点はブルドーザーが転回するための膨らみがあるが、そこは私にとって格好の喫煙所だった。何度目かの喫煙時に私は登山靴を脱ぎ足の指を調べていた。つま先がジワジワとうずき、それが痛みに変わっていたからだ。足の爪が全体的にうっすら赤みを帯びていた。靴紐をきつく締め直し再び歩き出したのだが、1歩踏み出す度にズキンと痛みが走り、自然と横向きに下りるようになっていた。体重のかかりが足の側面になったおかげでつま先の痛みは感じなくなった。右向きで数十歩、左向きで数十歩、そして正面を向いてつま先に痛みを感じるまで数歩…
私たちの下山ペースは極端に落ちてしまった。
私は折り返し地点の「喫煙所」ごとに休むようになっていた。タバコを吸うためではなく足を休めるためだった。横向きの下山は両足を「く」の字の姿勢で踏んばるため、ひざに負担がかかりすぎたのか、両ひざの裏側がしびれて踏んばる度にガクガクするようになっていた。
娘は私より速いペースで先に下り、後から来る私が着くまで景観を見ながら待ってくれていた。私が横向きで下山するようになってからは私に付き添い「大丈夫?」と何度も声をかけてくる。その表情は曇り私を慮る心情がうかがえた。私はそれが心苦しかった。娘に遅れまいとする焦りが足に一層負担をかけているように思えたからだ。
私は「喫煙所」で再び靴を脱いだ。つめの赤みが濃くなっていて、押さえると痛みが走る。その様子を心配そうに見つめる娘。
「水ある?」
「あるよ」
娘はリュックから真新しいペットボトルを取り出した。
私は2本用意してきた水を既に飲みつくしていた。娘も2本用意してきていたが、まだ1本目の半分しか飲んでいなかった。昨日から今の今まで便意を気遣い、あらゆる状況に対処できるよう神経を張り巡らせてきた娘に比べ、足を痛めてヒーヒー言っている自分が情けなかった。
「オンニは全然平気だから、アッパそれ持ってっていいよ」
「分かった。ありがとう。それと、アッパは休み休みゆっくり下れば大丈夫だから、オンニ、先に行っててくれる?」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫!お前に気を遣うより1人のほうが気が楽で自分のペースで行けるから」
「じゃあ、オンニは先に行くけど本当に気をつけてね」
娘はリュックを背負い20mほど下りて振り向いた
「下で待ってるからね~」と、手を振った。
私はホッとした気分で2本目のタバコに火をつけた。裸足でひざを伸ばし陽光にさらされていると痛みが和らぎ疲労も遠ざかっていくようだ。
タバコを吸った後も私は目の前を過ぎてゆく下山者をぼんやり眺めていた。
「体調がすぐれなかったら気軽に声をかけてください。私は一番最後に下山しますから。」と言っていたガイドの到着を待っていたからだ。 都合3本のタバコを吸ったがガイドは現れなかった。足の痛みも引いたようだった。私は登山靴を履き直し娘からもらった水をひと口飲んだ。
(とにかく行けるだけ行ってみよう)
ソロリソロリと慎重に足を運ぶ。
つま先の痛みがジワジワとぶり返してくる。横向きになりひざがガクガクして踏ん張りが辛くなるまで下る。そして斜面に後ろ向きになり、つま先がうえに向いた状態で足を下に突っ張るとひざ裏が伸ばされ楽になることを覚えた。その姿勢で何歩か下る。何のことはない。後ろ向きのまま下山しているのだ。しかし、それは5、6歩が限度であった。今にして思えば何とも不様でみっともない格好だが、当時は気にかける余裕すらなかった。折り返し地点ごとにタバコを吸い、つま先の痛みとひざのガクガクをあやしながら前向き、左右横向き、後ろ向きを繰り返してゆっくりと時間をかけ、ようやく忌々しい砂利道を抜け出ることができた。そこが八合目であった。
父と娘の微妙な距離感がなんとも微笑ましく感じられて楽しく読んでます。私にも娘が一人いますが全くこの小説と重なる事が多くて「分かる、分かる。」と頷きながら読んでます。
ガンバレ‼️世のアボジたち!
待ちに待った感動の富士山山頂での【ご来光】快晴で本当に良かったです。写真を見てるだけでも人々が感極まる気持ちが伝わってきます。一生のうち一度は見てみたいなぁ~‼️そんな気持ちも湧いてきましたが・・・寒さや眠気や足の痛みなどなど…過酷な状況での下山の様子を読んで心から思いました。「私にはもう無理です。笑」先に下山するように促すアッパとそんなアッパの心を気遣う娘さん、本当に素敵な父娘ですね。続きが楽しみです(*^^*)♡
富士登山には許可は必要なんですか?エベレストは、許可を必要とするものの、ラッシュアワーのように人で溢れて、死者が続出していますね。環境問題、また荷物を運ぶ現地のガイドさんたちの負担も心配ですね。
富士山の登山は許可は必要ではありませんが、入山料を取っていますね一人1,000円で釈然としませんが…。環境保全とか維持・管理などの名目でね。シーズン中は24時間体制で登山道の入口にいますよ、昨年も富士山で死者が出てるので、今年登ってみようと思われている同級生諸君がいたらご用心を。