先日の「訓民正音解例本」の記事の補足になるが、我が民族の誇りであるこの「訓民正音解例本」の入手のいきさつについて、要約だけ書かせて頂こうと思う。
日本の植民地時代、金台俊(1905-49)天台山人という筆名で、当時一声を風靡した国文学者で思想家がいた。 京城帝国大学で中国文化と朝鮮文学を専攻し、1930年には若干25歳の若さで、東亜日報に「 朝鮮小説史」を68回にわたって連載するほど朝鮮文学に精通していた。
1931年には李煕昇(1896-1989)らと朝鮮語文学会を結成し、 同年には「朝鮮漢文学史」を発刊するほどの人物だった。
1940年の夏のある日のこと。金台俊は何人かの弟子のうちで慶尚北道安東出身の書道家の李容準を最も可愛かった。 その彼が師匠の金台俊に驚くべきことを耳打ちしたのだった。
「その家門の先祖が、女真征伐の時に大きな手柄を立てたそうです。その褒美として世宗大王から『訓民正音』を下賜され、家宝として伝来してきたということです」
訓民正音解例本は、1446年に世宗大王の命令で編纂され、朝鮮王朝時代に広く使用された。「訓民正音解」は、ハングルの文字と音の対応を詳細に解説し、韓国語の発音ルールや文法についても説明していると世宗実録には記載されていたが、実物はいままで発見されてなかったのだ。
金台俊は李容準とともに慶尚北道安東へと下った。そして「訓民正音」をつぶさに見ると、世宗実録に記されている関連記述と相当部分が一致していることがわかった。 紛れもなく「訓民正音解」 に間違いなかった。 しかしこの本には最初の二頁が欠損していた。
その理由を聞くと、かつて古書などの所持を厳しく取り締まった燕山君時代に、やむを得ず二頁を破ったという家門の伝承があると答えた。金台俊はさもありなんと思ったが、一方でこの「訓民正音解」の取引で多額の手数料を得て、社会主義革命の資金に加えようと考える。
金台俊は、全鎣弼から少しでもお金を多くもらうには、京城帝大図書館内にある「世宗実録」をもう一度よく精査し、欠けた二頁を復元しなければならないと思った。
金台俊は京城帝大図書館で「世宗実録」を見て諳じ、それを朝鮮美術展覧会の書道部で特選したほどの腕前を持つ李容準に、安平大君体に似せて書くように企てる。
その年の秋が近づき、金台俊と李容準は欠損した二頁分の文章の復元と安平大君体の練習を終える。 後は「訓民正音」の紙とよく似た黄色っぽい韓紙さえあれば良かった。 でも、韓紙を窯で蒸して黄色っぽくしようとしたが、季節柄うまくいかず、結局、春まで待つことになる。しかし社会主義者だった金台俊は、年が改まり翌年に拘束されてしまうのであった。
金台俊が病気で保釈されたのは、2年後の1943年夏であった。 獄中にいる間、金台俊の家族は破綻をきたし、母と妻はひどいうつ病にかかり、1人息子は病死していた。金台俊は挫折と時代に対する憤怒で苦しんだ。
そうした時、弟子の金台俊が現れたのだ。
「先生!『訓民正音』をちゃんと保管しております。 これを処分すれば、何か道が開けるんじゃないでしょうか」
金台俊は考えた末、全鎣弼に手紙を送る。 全鎣弼はその手紙を読んで考え込んだ。当時、朝鮮総督府はハングルを抹殺するのに血眼になり、朝鮮語学会の学者まで検挙するような状況で、社会主義者の金台俊を通じて「訓民正音」を購入するというのは、当時は危険極まりない事であった。
しかし全鎣弼は、どんな危険を犯してもこの書物を手に入れることを決意する。全鎣弼は金台俊と対面し、それとなく値段を聞くと、金台俊は一息ついてこう答えたそうだ「千円欲しい」と。
当時の千円は大金であった。金台俊はふっかけ過ぎたのではないかと心配し、全鎣弼の方を見た。すると全鎣弼はにやっと笑って言うのだった。
「そんな尊い宝物は、家一軒ではなく十件でも足りないぐらいですよ」
全鎣弼は風呂敷包み2つを用意し、そのうち千円が入った風呂敷包みを金台俊に渡しこう言った。
「これは『訓民正音』の代金ではありません。 天台山人に差し上げる謝礼です。誠意として別に千円を用意しました」
金台俊は驚いた様子で全鎣弼を眺めた。そして「『訓民正音』の値は 一万円としました。『訓民正音』ほどの宝物は、少なくともこれくらいの待遇を受けなければなりません。 しかし私の立場もあり人の耳目もありますから、『訓民正音』の引受人は、私ではなく代理人に任せています。 ご理解ください」
「訓民正音解例本」を全鎣弼が購入した事実は、祖国の解放後まで秘密裏に伏された。発掘の決定的役割を果たした金台俊は、1944年に結婚後、中国で抗日独立運動をするために延安に逃亡する。そして解放後に帰国し、南労党の中心幹部として活動していたが、1949年7月に検挙され、死刑宣告を受け、その年の秋に銃殺された。一時代を風靡した天才学者は、生まれた時代が悪かったのか、虚しく世を去った。
李容準もまた南労党で活動していたが、北に渡り非業の最期を遂げたのだった。
紆余曲折の末に発掘され後、植民地時代の弾圧と朝鮮戦争の戦火をかいくぐり、無事に生き延びた「訓民正音解例本」は、1956年に研究のために印影本として出版したいと申し入れがあると、全鎣弼は快くそれに応じた。
そして一頁一頁解きほぐして写真を撮らせた。こうして「訓民正音解例本」の印影本が出版されると、多くの学者がハングルを体系的に研究できるようになった。
金台俊と全鎣弼によって発掘、保管された「訓民正音解例」は1962年12月に国宝70号に指定された。そして1997年10月には、ユネスコ世界記録遺産に登録された。
もし全鎣弼が生きていたなら、小躍りして喜んだに違いない。
へぇ~ そいういきさつがあったんですね👀
でも、よくその記録が残っていましたね👀 購入した人や、金額や~👀
いずれにしても紛失しないで良かったですね😊