全長17キロの平野川は百済川とも呼ばれ、河内平野の農業用水と物資の運搬のための運河であった。生野という地名も湿地帯であったこの地域から来ているという。
水はけをよくして工場や住宅地にするために1921年から23年にかけての大工事に、慶尚道から多くの労働者が連れられてきた。
1922年には済州島と大阪間に定期連絡船「君が代丸」が就航し、多くの労働者、女工たちがここ大阪に渡日して来る。
これがこの地域に多くの済州島民が住むことになった要因の一つである。
全長17キロの平野川は百済川とも呼ばれ、河内平野の農業用水と物資の運搬のための運河であった。生野という地名も湿地帯であったこの地域から来ているという。
水はけをよくして工場や住宅地にするために1921年から23年にかけての大工事に、慶尚道から多くの労働者が連れられてきた。
1922年には済州島と大阪間に定期連絡船「君が代丸」が就航し、多くの労働者、女工たちがここ大阪に渡日して来る。
これがこの地域に多くの済州島民が住むことになった要因の一つである。
現在コメントは受け付けておりません。
そういうことだったんだね~ 猪飼野👀
よほど臭い川だったんだろうね💦 豚の糞だらけ💦 時には死体も浮いていたとか😢
生きるためには、皆必死だったんだろうね~
私のオモニも、君が代丸で日本に来たと聞いたことある😆