日本の敗戦は祖国の解放を意味した。解放後日本に残った在日同胞の多くは、いずれは祖国に帰るのだという強い意志を持っていた。
そのためには日本で生まれ育ち、皇国臣民化教育を受け、強要された日本語しか知らない子どもたちにウリマル(母国語)を教える必要があると考えた。
解放後、日本全国には600ヵ所の民族学校がつくられた。約6万人の子女がそこで学んだのだ。先生も校舎も教材も足りない中「知恵のある者は知恵を、力のある者は力を、金のある者は金を」を合言葉にその気運は高まり、民族の言葉を取り戻す民族教育が始まったのだ。
しかし日本政府は「共産主義の温床」という理由を押し付け、その廃絶をGHQに働きかけ、1948年1月「朝鮮学校設立の取り扱いについて」という学校教育長名の通達を出し、私たちの自主教育を否定しようとした。同胞たちは民族教育を守ろうとして反発した。
1948年4.24教育闘争はその象徴的な事件であった。4月24日、アメリカ占領軍の非常事態宣言が発令され、多くの同胞たちが検挙された。この闘争中、警官の発砲により少年が射殺されるという不幸な事件が起きた。
その後、朝鮮人学校閉鎖令が閣議決定されると、ほとんどの学校が閉鎖され、子どもたちは日本学校への転校、もしくは不就学を強いられた。
我々のアボジやオモニの学生時代ですね~
写真に誰かの知り合いが混じっていそう~👀
最後の東京朝高の写真は、今の敷地そのままですね~
あっ、あそこで授業さぼった~💦 あっ、あそこでタンベ吸った~💦
あっ、あそこに部室があった~ なんて懐かしく見ちゃいました~😆
管理人さん頑張って、ありがとう