卒業の春…再会の準備を始めよう

大財閥資本を一代で築き上げるー李秉喆

李秉喆の青少年時代

彼は慶尚南道宜寧郡正谷面の月城李氏の出身で、朝鮮が日本の植民地に転落した1910年の生まれである。父は李纉雨(1874~1957)。祖父は「文山文集」を編さんした有名な儒学者で、彼は幼時から祖父の書堂で『論語』などを学んだという。

李秉喆 生家

生家は一千石の豪農で、開化の時代を迎えて、新式の教育を与えるため、11歳の時、姉の婚家のある晋州の智水普通学校(小学校)の三年に編入した。旧式の古典の暗唱に終始していた書堂からの解放は、よほど新鮮であったようで、それならさらに開化の進んだソウルに進学したいということで、同年、母の実家のあるソウルの寿松普通学校に転校した。

四学年を終えた時、さらに学齢の遅れを取り戻したい気持もあったのであろう、中東中学校速成科に入学、一年間で小学五・六学年の過程を終えて、1926年4月、本科に入学した。ところが、その年の秋、家から一通の手紙がとどいた。「お前の結婚が決まったので12月5日(陰暦)家に帰るよう。」そして、その日、初めて見る慶北道達城郡出身の朴杜乙女史と結婚式をあげたのである。

李秉喆 生家

1929年、中東中学四年修了。当時、四年を修了すれば大学進学が認められていたので、父に希望を述べて、東京の早稲田大学専門部政経科に入学。あこがれの東京生活を始めることができた。ここで後に社会主義者になって北へ行く李舜根などに会うが、自身は別に思想運動には関心を持たなかったという。

それよりも生活の急変と偏食のためか脚気となり、やむなく翌年学業を断念して早大を中退し、故郷やソウルで何年も無為の生活を送ることになる。

ところが転機が突然やって来た。その日も骨牌賭博にうつつをぬかし、夜遅く家に帰ってきた。明るい月光が窓を通し部屋を照らしていた。すでに24歳。いつしか三人の父親となっていた。月光に浮かぶ子供たちの寝顔を見た瞬間、突然悪夢から覚めた気持がしたのだ。

「あまり無駄に月日を過ごしてしまった。志を立てねば!」その日は一睡もできず、何か「事業」を起こそうと決意したのである。それは1934年10月のことであった。

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2 COMMENTS

最長じゃない❓🤣

長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。

私の名前はサムスン?

ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍

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