最初の事業―精米所の開業
何日か後に、父にこの決意を話すと、激励の言葉と共に若干の財産を分けてくれた。
どこで、何をすべきか。大邱・釜山・ 平壌にはすでに日本人が入り込んでいて商機はないようである。そこで彼は馬山に注目した。慶尚南道の農産物の集結地であり、ここから朝鮮産の米が年間数百万石も日本に移出され、そして朝鮮農民用にと、満州から大豆、高粱などが輸入される港湾都市である。精米所は常に能力を超え、周囲には「もみ俵」が山をなしていた。
「これだ! ここで街一番の精米所を作れば、必ず成功するに違いない!」 そこで二人の友人を説得して一万円ずつ出資し、一方、殖産銀行馬山支店長に誠意をもって融資を頼み「協同精米所」を立ち上げた。
この事業は予想どおり成功を収め、さらに余勢を駆って「馬山日出自動車会社」を買い取り、トラックによる運送業へと事業を拡大することができた。
次に、彼は次々に金海平野の農耕地を買い入れて行った。資金は要求するままに銀行が融資をしてくれた。いつのまにか200万坪の大地主となっていた。さらに彼は銀行の融資を当てにして釜山・大邱の住宅用地まで買い集める仕事を進めた。
ところが、ある日、突然、銀行から今後一切の貸出しを中断するという一通の手紙がとどくのである。1937年7月、中日戦争の拡大にともない断行された日本政府の非常措置であった。
暴落する土地を投げ売りしても借金は埋まらず、ついに精米所と運送会社も処分せねばならなかった。やっと残ったものは、十万坪の耕地と現金二万円であった。
天変地異の不運の中でも、幸いであったのはすべての負債を処理できたことである。30歳前の若者には大きな教訓となった。
ここから彼は事業する時には、①国内外の情勢の変動を的確に洞察せねばならず、②無謀な欲望を捨て、自己の能力と限界を冷静に判断せねばならない。③運を期待する投機は禁物であること、④直観力の練磨と第二,第三の対策が必要だし、失敗と判断すれば、すみやかに次善の策を講ずること、などを身にしみて学んだのである。
この若い時の貴重な失敗の経験が、のちに経営の方針として生かされていくのである。
長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。
ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍