「三星商会」の設立
これまでの事業をすべて整理したのち、新しい計画を立てるための視察旅行に出発した。釜山より始めてソウル、平壌、新義州、元山、興南などを巡り、さらに新京(長春)、奉天(瀋陽)など、当時満州といわれた都市をまわり、ついでに北京、青島、上海まで足を伸ばした。
二ヶ月の旅行により、青果類と乾魚類および雑貨の貿易に従事するのが良いと思われた。根拠地を大邱の西門市場に近い竪洞とし、250坪の店舗を買い「三星商会」と看板をかかげた。 資本金は3万円、1938年3月1日、28歳の時であった。これが「三星」の母体となって行く。
三星の「三」は、大きく、多くて、強いという意味で、わが民族の好む数である。「星」は清く高く、永遠に輝くという意である。強大にして永遠であれ―再出発に当り、このような願いを込めて掲げた商号であった。
こうして大邱一帯で生産された青果類と浦項の乾魚類を満州と中国に輸出する仕事が始まった。馬山の時の失敗を考え、農業の作柄や漁業の情況については絶えず調査を怠らなかった。輸出は順調に増えて行った。
間もなく早稲田時代の李舜根氏を支配人に迎えることにした。彼は卒業して帰国していたが、学生運動が仇となり、就職できないでいたのだ。彼の人格を信じ、手形の発行、印鑑の管理など、殆んどすべてのことを彼に任せたのである。「疑人勿用 用人勿疑(人を疑うなら採用するな。人を採用するなら人を疑うな)」 人を採用する時,慎重に人を選び、いったん採用したならば大胆に仕事を任せる―これがその後の三星の方針となった。
三星商会のその後の急成長は、厚い信任に応えた李舜根氏の力が大きかったが、彼はその後、解放を迎えて本格的に左翼運動に献身するため、辞任し、のちに北へ行ったという。
事業の拡大を考えていた時、大邱でも大きな清酒を作る朝鮮醸造という会社が売りに出されていることを知り、ただちに買い入れた。
また、日本敗戦後の食糧難に備えて大邱郊外に一万坪ほどの果樹園も買い入れた。
ついに8月15日、日本天皇の無条件降伏のラジオ放送が終わるや、街中から「独立万歳!」の歓喜の声が湧き起った。
間もなく米軍の軍政が実施され、李承晩も帰国する。彼は何度も李承晩に会って意気投合し、米軍支配の下で南半部だけでも選挙を実施し、李大統領のもと資本主義の道を歩むとの方針に、全面的に賛同するのである。
1947年5月、彼はソウルに買い入れた大豪宅に移り、「三星物産公司」の看板をかかげ、香港、シンガポールなど東南アジアとの貿易に従事する。輸入したあらゆる商品が、通関するや否や売り切れとなった。三星物産公司は、たちまち国内の最大手となった。
事業というものは意欲だけでなく時期と人、そして資金の三拍子がそろうことが必要だと彼は痛感したのである。
ところが、わが民族にとっても、彼の事業にとっても、大きな試練が突発する。朝鮮戦争である。彼は北の統治下でのソウルの生活を三か月もの間、息を殺して過ごした。そして三か月後の9月15日のマッカーサーの仁川上陸を歓喜して迎えたのであるが、北上した米軍が鴨緑江に迫るや、中国人民軍の参戦となり、再びソウルは北の統治下に入るのである。そこで彼は、すべてを捨ててトラック5台に社員や家族を乗せて大邱に避難する。
彼らを迎えた朝鮮醸造の責任者は、こう言うのである。「社長、心配はいりません。三億円ほど備蓄があります。自由に使って下さい。」逆境に行って、真の友がわかったと彼は言うのだ。
長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。
ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍