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大財閥資本を一代で築き上げるー李秉喆

製造業への決意

1953年7月、一進一退の戦況であったが、やっと停戦協定が結ばれ、戦火が静まることになった。しかし物資不足は深刻で、食糧はもちろん日常の雑貨も乏しくインフレは加速していた。

大邱に避難して3億円の資金を与えられた彼は、臨時首都の釜山へ行き、古参の社員を集めて三星の再建を急いだ。3億円の資金で会社を「三星物産」と改変していたが、事業は急激に発展して、1年後の決算はインフレ時期とはいえ20倍の60億円に増加していた。

しかし心の中は、なにか満足できないものを感じていた。「自ら選んだ仕事ではあるが、貿易業ではなく、もっと重要な事業があるのではないか。」もちろん当時にあって貿易は社会の最も重要なしごとではあった。しかし、次第に彼は次のように考えるようになっていた。

当時の砂糖販売所

「国民が日常使う消耗品を輸入にのみ頼るのでなく自国で生産すべきではないか。人的資源の他には資源の乏しい韓国にあって、原資材を輸入し、それを多様な商品に加工して輸出するのが韓国の生きる道ではないのか。そのため優れた技術と加工・生産の施設を持つ製造業こそ必要なものではないだろうか。」

この考えを三星物産の幹部や政府関係者に説いたけれども、殆んどの人が否定的であった。いまだ社会が不安定なうえに、資本投下して製品が産出されるまでの懐妊期間の長い生産工場に、膨大な資金を投下するのは無謀だというであった。会社の興亡にかかわる問題であるだけに、社内で何度も会議をもったが、積極的な意見を述べる人は少なかった。最終の決断を下すのは最高責任者の任務である。彼は熟慮の後、製造業への投資の決断を下したのであった。

製造業の業種は何にすべきか。調査の結果、製紙、製薬、製糖は国民生活に必需品であるにもかかわらず、国内には何も生産工場がないことが解った。これについての企画と見積もりを日本の三井物産に依頼すると、製糖は三か月後に届いたが、製薬は6か月、製紙は8か月かかるとのこと。1カ月の時間が惜しく1953年4月、三星物産の社内に製糖会社創立事務所を設置し、6月に発起人総会を持った。休戦協定一か月前のことである。株主は主として彼と三星の幹部たちが出資した。

1950年代の第一製糖工場 全景

社名は「第一製糖工業株式会社」とした。この「第一」に彼の期待と決意が秘められている。

三井物産の見積もりによれば、計18万ドルの外資が必要であったが、政府当局の支持によって配分を受けることができ、内資の不足分は商工銀行の理解によって2千万ウォンの融資を受けることができた。間もなく田中機械のブランドが釜山港に到着したが、機械の組立、試運転までに必要な日本人技術者は、李大統領の排日政策によって一人も入国許可が降りなかったのだ。

やむをえず国内の組み立て会社に問い合わせたところ、設計図があれば可能であろうという。彼らに組立を頼むことにした。ところが今度は日本側が、それでは製品に責任が持てないから困ると言い出した。当然のことながら、また韓国の技術でできるのか、という気持ちもあるようである。責任の追及はしないことにして国内陣営だけでやることにした。困難の連続であった。国際電話もきわめて不便な中を悪戦苦闘しながら、予定工事を2か月短縮して完成を見たのであった。建坪800坪、台湾の原糖により日産25トンの規模であった。

試運転の過程で不具合もあったが、ついに1953年11月5日、純白の精製糖が湧き出したのであった。

砂糖の積み出し作業

こうして100%輸入に依存していた砂糖は、3年後には国内需要の7%のみを輸入に依ることになり、国内価格も3分の1となった。これを見て他の企業も製糖に参加し、混戦となったが、第一製糖は経営合理化を進めると共に製粉工場を併設し、さらに調味料、食用油など30余種の加工食品、配合飼料と肥料まで生産する総合食品メーカーとなって事業を拡大させた。1978年には国際水準の食品研究所を設立し、微生物発酵・抗生物質などの医薬品の国産化など先端技術へと拡大させていった。

これらの経験から三星は,はじめて韓国における重化学工業や電子工業へと移転する契機をつかんだのである。商業資本から産業資本への転換といえよう。

彼はその成功に満足することなく、綿密な調査の末、1954年9月、わが国に初めてとなる「第一毛織株式会社」を立ち上げた。「衣・食・住」は人間生活に最も重要なものとされる。この衣の生活に革新をもたらす毛織物の自給自足を企業化しようというのである。これも政府の強力な支援をえて、主要機械は西独より、付属機械は英・伊・仏などの国から最高の性能をもつものを投入した。

第一毛織を視察する李秉喆 1964.

毛織工場といっても、西洋では近代産業が発達して製糸・染色・加工・織布など工程別にそれぞれ専門化、分業化ができているのであるが、それのない韓国では、これらの工程を総合して一貫生産を行わねばならないし、工場建設に当たっては立地・気象・水質・交通・技術指導など数10項目にわたる専門知識が必要で、少なくとも外国から60名の専門家の1年間の指導が必要と言われたのであるが、大胆に主要部門4名のみの派遣を頼み、その他は自力で完工を目指したのである。大邱市の北部、佔山洞に7万坪の敷地。全館スチーム暖房。女子工員の寄宿舎も立派なものを計画した。

社員、技術者、現場作業員の一致した情熱の結果、1956年初までに予定を半年も短縮して綜合工場の完成を見たのである。

その製品「ゴールデンテックス」は、国民の支持を受けて英国製、日本製を駆逐し、ついに英国に輸出され好評を受けるにいたった。

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2 COMMENTS

最長じゃない❓🤣

長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。

私の名前はサムスン?

ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍

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