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大財閥資本を一代で築き上げるー李秉喆

「韓国肥料」建設から大財閥資本へ

朝鮮戦争停戦後も、韓国社会の混乱はつづいた。1960年4月19日、学生、市民は李承晩独裁政権打倒のデモを起こし、これは全国に広がって李承晩はアメリカに逃亡したが、これに代わって1961年5月16日、朴正熙を中心とした軍部が政権を握るにいたった。

この間、彼は次の計画として肥料工場建設を計画していた。当時、国内で必要な肥料の殆んどすべてを、貴重な外国からの援助資金の40%を使って輸入していたのである。さらに肥料の需要は年ごとに増加することが予見されていた。

彼はこの工場建設に必要な外資を、諸外国から借款導入によって解決しようと、1959年秋から日本、米国、西独などを巡り、それが可能なことを知った。また、帰国の途中、東京に立ち寄り日本の主要な経済人とゴルフを共にしながら親交を深めたりした。

工業団地建設現場を視察 朴正熙と李秉喆

しかし、1961年5・16の直後、国民から不正蓄財者第一号として糾弾され、朴正熙に申し開きする過程で相互の理解を深めることもあった。

「不正蓄財者を処分せよ」との国民の声に押され、朴政権は主な企業家10数名を逮捕し、追徴金も課されることになった。彼は朴正熙に「経済人に罰金の代わりにそれぞれ基幹工場を建設させ、その株式を政府に納付させたらどうか。経済人を有効に活用すべきである」と説いて、自身は肥料工場を担当しようというのである。

結局、長年の念願であった肥料工場は、朴大統領の直々の依頼もあって、1968年8月に日本の三井物産から4190万ドルの借款を受けて着工となった。外国民間借款導入の第一号となったのである。その後、日本資本の導入は、1965年、韓国側の一方的譲歩によって妥結された「日韓基本条約」以後、さらに促進されるのである。

なお、1960年代初めに第一製糖を主舞台として「三粉暴利事件」――砂糖、小麦粉、セメントに携わる財閥が価格操作と脱税によって暴利を貪り、その一部が与党の民主共和党にながれたとして三星代表の彼は社会的非難を集中的にあびたし、その後も韓国肥料は1960年「韓肥事件」(サッカリン密輸事件)を引き起こし、三星は文字通り買弁的な「罪閥」の汚名をほしいままにすることになった。

総合電算室を視察する李秉喆と李健熙 1976.12.

この事件を契機に、彼は韓国の株式の51%を国に献納を約束し、責任を取って経営から退くが、若干の時間をおいての復帰後は、満を持して最初の事業として電子分野への進出となるのである。この分野における三星の事業は、後継者問題とからんで長男孟熙と次男昌熙は次第に排除され、この分野に明るい三男の健熙が後継者と目されるようになり、電子分野への成功を収めて行くのである。

アメリカ視察のため搭乗する李秉喆

紙面の関係上、それ以後の彼の企業の発展をくわしく述べることはできないが、それ以後、彼の企業は綿密な準備のもとに石油化学、造船、精密機械、航空工業、電子、半導体、コンピューター、遺伝工学、生命保険、百貨店、軍需産業、マスコミ、自然農園など、などへと拡大・発展して行くのである。

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2 COMMENTS

最長じゃない❓🤣

長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。

私の名前はサムスン?

ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍

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