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大財閥資本を一代で築き上げるー李秉喆

三星文化財団の設立

1965年、彼は55回目の誕生日を迎えるに当たって、これまで慎重に計画してきた「三星文化財団」の設立を公表した。財団の基金は自己の持っている株券と不動産によるものとし、第一製糖、第一毛織、東邦生命、新世界などの株式のうち個人の持ち株分10億ウォン相当と釜山市龍湖洞の林野10余万坪を寄付したのである。

6年後の1971年にも2回目の寄付を行なった。その時、個人所有の財産を調査したところ、180億ウォンと評価され、その3分の1である60億ウォンを三星文化財団に追加寄付した。他の60億ウオンは家族と三星グループの有功社員に株式として配分し、残った60億のうち10億ウォンは社員共済組合基金に寄贈し、50億は自身が保管し、これから使用方法を考えることにした。

これを1971年、株式総会の後の代表理事会の会議で「私財三分化」の方針を公表したのであるが、これはマスコミに大きく報道され、一部では「何か伏線があるのかも」とされたが、多くは「果断だ」として好評であった。

この財団の最初の事業として、三星物産の発生地である大邱にある大邱大学が運営難におちいっていることを知り、この事業を引き受けたのであるが、大邱に綜合大学を作りたいという朴正熙大統領の強い要請により、これは譲渡された。

一方、三星奨学会の事業も文化財団により継承発展されることになった。そして学生に対する奨学金のみならず学術研究機関や研究者の活動に対しても支援する制度が作られたのである。

湖巖美術館

さらに財政難におちいっていた成均館大学校を引き取り、運営を正常化すると共に、これまで人文科学系に片寄っていた学部編成を理工系教育の強化を念頭に、まずその拠点として科学館を新築して寄贈し、1977年からは4個の単科大学から8個に、学科は25個から40に、学生数も3600名から7000名となり、校地も1万坪から2万7千坪と拡大されたのである。また医学大学の建設も構想された。その後、この大学は運営を政府に委譲された。

また、新書版で出版されることになった「三星文化文庫」は、第1巻をフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」から始まり、「朝鮮常識問答」崔南善、「三国遺事」一然など、数百種を出版し、高校や大学、公共図書館に寄贈され、一般にも販売されて、総刊行部数は数千万部となっている。

さらに、この財団は朴大統領の要請により、忠武公李舜臣を祭る牙山の顕忠祠と、周囲十数万坪の造景工事を行ない、立派なものに仕上げている。

晩年に近い彼の活動の中で特異な位置を占めるのが私立美術館として最大の規模を誇る湖巖美術館の建設である。

彼は大邱で三星商会を設立した頃から、すなわち30歳をすこし越えた頃から、書画類の蒐集を始め、次第に新羅土器、李朝白磁、高麗青磁へと領域を広げて行った。

美術品を鑑賞する李秉喆

それは民族の文化遺産に対する愛情と蒐集慾に基づくものであるが、一方では、全鎣弼氏(チョンヒョンピル、1906~62)が民族精神の固守のため自国の美術品を保護しようという使命感をもって、1930年代から日本の文化財略奪に対抗して蒐集を始め、人びとから大きな尊敬を受けていたことも念頭にあったかも知れない。

いずれにせよ李秉喆は、持前の執拗さと金力にものをいわせて、狙った物は必ず手に入れて行った。三国時代の金冠、青磁象嵌雲鶴牡丹菊紋梅瓶などの逸品を入手すると、彼に批判的な人は、「個人として国宝級の宝物を私有すべきでない」などと反発を引き起こすほどであった。

その苦心の蒐集品2万点(国宝、宝物多数を含む)が1975年、ソウル近郊の龍仁自然農園の丘の上に、彼の号を取って名づけられた湖巖美術館に収められ、その名称も三星文化財団と改変された財団によって公営化されることになったのである。

この美術館ではさらに国内外の現代美術を展示し、さらに蒐集を拡大している。

またマスコミにも進出し、1965年9月より「中央日報」が発刊され、三星グループの意見発表にも強力な役割を果たしている。

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2 COMMENTS

最長じゃない❓🤣

長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。

私の名前はサムスン?

ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍

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