彼の経営方針と晩年
李秉喆はその自叙伝の中で、「自分の日課は数十年間変わりなく、朝6時に起床し、夜は10時に就寝する。生活リズムはめったに破らない。目覚めていれば寸時も無駄にしないが、一度床に入れば、すべてを忘れて眠ってしまう」といっている。規則的な行動の原理があるのである。
こういう原理は、彼の企業経営にも見られる。企業運営の基本は責任経営制であり、信頼する各責任者に全権を委任する体制を取ってきた。傘下の企業の増加に従い「秘書室」を置き、グループ全体の統括を秘書室にまかせて来た。企画・調査・人事・財務の調整、監査など、三星秘書室(後に企画総合室に)の機能は、三星企業発生以来のものである。
そして、彼自身は経営、運営の原則と人事の大本だけを見てきたし、三星経営の原則を継承する人材の発掘だけを、自己の任務として来たと言っている。
三星の「人材第一」という経営理念に基づいて、57年から韓国で初めての公開採用社員募集を行ない、それは毎年、数十倍の難関となっている。また社員研修制に大きな努力をはらい、かつ社員の業績の評価を厳正に行ない信賞必罰を実行する人事考課制、さらに世界に進出するための語学検定考試制などを早くから実施してきた。
社員研修のためには広大な龍仁自然農園の中に千名を一時に受け入れる大型研修施設を作っている。
さらに、三星企業の特徴として指摘できるのは、企業付設の研究所が多数設立されていることである。80年の三星電子総合研究所をはじめとして、第一製糖遺伝子工学研、三星電子半導体研、三星電管総合研(以上82年)、三星電子生産技術研、三星データシステム技術研(以上85年)、三星重工業船舶海洋研、三星重工業総合技術研(86年)、コリアエンジニアリング 技術研(87年)、三星電子中央研(89年)などである。これが各秘書室および生産現場と密接に連結して効果を上げるのである。
なお、三星の海外進出にともなって、注目すべきことは、各種の「研究室」を先進諸国に設けていることである。ここに国籍を問わず優れた研究スタッフを集め、研究、実験、調査、情報の蒐集を行ない、その成果を国内の「秘書室」に送っている。
こうして三星はたえず製品の質の向上に努めてきたし、社会の需要をいち早く受けとめ、新製品の生産に努力してきた。70年以後では真空管、ブラウン管の生産、時計用・TV用のIC生産、VTR(ビデオ・テープレコーダ)、電子レンズ、ジェットエンジン組立て、X線フィルム、パソコン、8ミリVTR、さらに半導体製造分野では90年代に入って64メガ半導体(DRAM)、94年には256メガDRAM、96年には「夢の半導体」いわれる1ギガDRAMをそれぞれ世界最初に開発し、この分野で世界の頂点に立った。また液晶や携帯電話の分野でも世界有数の企業として成長し、世界70余国へ現地法人、現地工場、支社を設立し、世界有数の企業として認められている。
植民地の時代に生まれ育ち、解放後も幾多の危機と紆余曲折を乗り越えながら、肯定的な企業と生産の原則を貫き、大きな財閥企業集団として発展させ、朝鮮半島の分断という条件の中でも、韓国をGNPでは世界第十位に押し上げた企業集団の一人として、大きな事業をなしとげたと言わねばならない。
彼は李承晩、朴正熙などの暴圧的な政権も利用し、利用される関係を維持して、企業の発展を図ったし、1970年代の激しい労働運動・民主化運動の時代には、傘下の工場で労資の対立が激化しないよう予防対策に腐心したことは言うまでもないことである。これらのことは、多くの人を動員して書かれたという「自伝」には、少しもふれていないことではあるけれども。
1970年代より、ねばり強くつづけられた韓国の民主化闘争は、韓国社会発展の大きな原動力となるのであるが、企業家たちは勤労大衆との鍔ぜり合いの中で鍛えられて行ったのである。
一方、趣味としてのゴルフを通じて企業家たちとの親睦や情報交換をはかったし、豊富な資金をもって民族的な文化遺産の蒐集を楽しみ、それを三星美術文化財団に寄付し、美術館として展示できるようにもすることができた。また、新聞「中央日報」や「東洋放送」の映像を通じて、三星企業の意向を伝える道を作ったし、国楽や書芸にも心を通わすことができた。まことに多彩で実り豊かな一生であったといえよう。
〈科学と未来〉から抜粋
長ーい。朝から20分かけて半分いかなかった。お腹空いたから朝御飯食べて続きを読むことにします。ふーっ。
ほんと、なが~ィ💦
飛ばしながら読んじゃった~😢
ご苦労様~ は、分かる👍