「村本さんはわたしたちにとって光だ」と在日朝鮮人の人たちに言われることがある。僕は年に一度だけテレビに出て漫才をする。そこで、在日朝鮮人の話をすることがある。そのとき、それをみて、テレビの前で泣く在日朝鮮人達がいると聞いた。
なぜか、聞いたことがある。それはお笑い番組で「在日朝鮮人」て言葉がでてきたから、と。そんなガッツリ話してるわけじゃない、それでも、その言葉が出てくると泣くんだと。それは多分、誰も私たちのことを知らない、と思ってるんだろう。日本では透明人間にされているんだと思う。
たしかに吉本の大きな劇場で「在日朝鮮人がいて、彼らは選挙権もないから投票にも行けず、北朝鮮と日本の仲が悪く、学校の無償化からも外されている」というとたまに”えー”と客席から声があがる。たくさん知らない人たちがいるんだろう。「在日朝鮮人てなに?」とネタ終わりに言われたこともある。
彼等はいるのに、いないようなってる。だからそんな彼等は”それをネタ”にする僕を”光”という。いないようにされてる彼らには、おれみたいな小さな光でも、太陽のように感じてくれる。だから「私たちには光です」と、そんな言葉を言われたとき、光の届きにくいところにいるんだなと思う。でも残念ながらおれは太陽ではない、懐中電灯だ。しかもずっしり重たい。いつだって、それを誰かがそこに運んでる。
そんなおれは、最近、京都の朝鮮学校に行ってきた。おれは朝鮮学校にいくつもりはなかった。その前日、僕は京都で独演会をした。ライブ終わりに、朝鮮学校の小学生の子供を持つお母さんが「実は、わたしオモニ会(お母さん会)の会長をしてて、明日、朝鮮の小学校に来てください」てって声をかけられた。僕が、ポロっと「明日昼から東京で仕事なんですよー」というと「じゃあ朝に、どうですか、子供達を喜ばせてあげてほしいんです」と。おれは関西のおかん独特のアグレッシブすぎる攻撃は苦手だ。「そういうのはおれじゃなく、自分達の子供なんだから自分たちがやってください」といって断った。ちなみにその日の京都の独演会は完売だった。佐藤さんって人が、このライブを企画してくれたんだけど、聞けば、彼は、おれのライブを、北は秋田まで、全国いろんなところにみにきてて、どうしても京都でやってほしいと言ってくれていた。おれは、客を集めてくれて、マイクがあってお笑いのライブをやらせてもらえるんなら、どこでも行きますよ、といって、了解した。
その佐藤さんという男性が、その日のお客さんを集めてくれた。今テレビにも出てないおれのライブにはあまりお客さんも少なくなってる。しかしその日は満席で、客席は、熱気があった。聞けば佐藤さんは「京都の在日朝鮮人の友達が集めてくれたんです」と言った。佐藤さんは日本人なのだけど、京都の在日朝鮮人の友達がたくさんいて、その人達のことが大好きで、彼らに村本さんのネタを見てもらいたい、と、京都に住む彼らにお願いして、集客をしてくれたらしい。在日朝鮮人の彼らも「テレビの漫才最高でした!ずっときて欲しいかったんです、念願叶ってよかった」と言ってくれた。(大阪でも、なんならzoomでやってるから、たまにはそっちもこいよ!)とも思ったんだけど、それは静かに飲み込んだ。その日のライブはすごく良かった。中には高校生もいたり、強面のおじさん達もいて、その両方が笑うところが、同じだった時とても嬉しかった。終わりでライブを主催してくれた佐藤さんは「部屋でささやかな打ち上げをしませんか?」と、彼のホテルの部屋に、集客を手伝ってくれた、佐藤さんの友達、数人を呼び、食事をした。赤ワインに、ビールはハートランド、おれの好きなやつばかりだった。
佐藤さんはおれのインスタなどを見て、好みのものをチェックして、用意してくれたらしい。食事もぜんぶ彼の手作りで、クスクスであったり、いいレストランにでもきたかのような料理ばかりだった。
その夜は、在日朝鮮人の人たちの話をたくさん聞いた。その中に朝鮮学校の小学校の校長もいた、まだ43.4歳ぐらいか、若い校長だった。彼は、その席で何度も、明日、朝鮮の小学校にきませんか?小学生から幼稚園生まで、ぜひ、子供達、喜びます」と、お願いしてきた。あの、ライブ終わりの朝鮮学校のお母さんも、楽しみに待ってます、と。おれはあまり子供ってのは好きじゃない。
疲れるから。渋ってると、あの手この手で誘ってきた。「朝鮮学校のスクールバスの運転も僕してます、乗りませんか?!」と。スクールバスで釣れるわけがないだろう、と、そんなことより、校長がスクールバスの運転?というと、お金がなくて自分たちでやってるんです、と。彼のあまりのゴリ押しに「とりあえず明日の朝決めましょう」といった。なぜ決めるのが、明日の朝か、それは、朝9時にホテル下に集合して、車で20分ぐらいかけて、宇治までいく、という。
芸人のおれにとって朝9時は普通の人の朝5時だ。その日はさっさと自分の部屋に戻って寝た。しかし、ムクッと翌朝、8時ぐらいに起きてしまった。めんどくせー…めんどくせー…とシャワーにはいり、めんどくせーなー…と、でも別に、仕事まで時間あるし、でも、子供なんか、おれのこと知ってるわけないし…親の自己満足やん…絶対知らなくて静まりかえって大人達に「でも、子供達喜んでましたよ!シャイなんです」なんて気を遣われる未来はおれには見えてた。
んー…と、モヤモヤモヤモヤ、ぶつぶつ、と服を着替え、荷物をまとめ、ホテルの下の待ち合わせ場所に行った。しかし、9時になっても、校長はこない、少し待って、来ないので、おれは「よっしゃーー!!!これで、おれのせいではない、彼のせいで、行かなかったということになる」と。台風で学校休みになったぐらいウキウキしながら、でっかいキャリーバッグをガラガラ転がし、京都駅に向かった。その途中で、昨日お世話になった、佐藤さんに「しばらく外で待ってましたが、校長来ないので帰りまーす、やつに伝えといてください、今度、街宣車で学校に乗り込みます笑 と。昨日はありがとうございました」とメールし再び駅へ。すると、佐藤さんから電話が。なにか嫌な予感がしたから、わざとでなかった。
すると、ラインが。「校長、ぼくの部屋にきて、ずっと、昨日の飲み会の片付け手伝ってくれてました、村本さんが起きれないというから、起こさないで、待っていよう、と部屋で村本さんからの連絡待ってました、いま校長泣きそうな顔してます」みたいなメールが来た。
その校長は普段から泣きそうな顔をしてる、だからあの人の普通の顔やろ、と心の中で、同情心をぶった斬り、きゃりーをゴロゴロ転がした。けどなんか、モヤモヤしてた。心の底で、ちらちら、罪悪感が、顔を出してた。「いいのー?それでー?本当にそれでいいのー?」と、罪悪感はこれを挑発してくる。いや、おれがミッキーマウスならすっ飛んでいくさ、おれなんかが言っても、誰も得しない、いやそもそも、おれはしゃべりで飯を食ってる。誰だって俺を呼ぶとき、事務所にギャラを払ってオファーする、それでおれは生活をしてる、それを、金も払わず、きてくれって、友達じゃないんだから、昨日の朝鮮学校のお母さんだって、この校長だって、おれに対する敬意ってものが、ないじゃないか。
すると罪悪感はまたは顔を現してこう言う「でも昨日の夜、あんなにたくさんの人たちがライブにきてくたやーんお金払ってみんな来てくれたやーん」そんな時、急に、少し前のことを思い出した。大阪の高架下のもつ焼き屋で飲んでたら、会計の時、支払いは終わってると言われた。聞けば、在日朝鮮人の人が、支払ってくれてたそうだ。彼とは会ってないし面識がない、いつもありがとうございますと言って。友達でもないのに、写真を撮ってとか、サインとか、そんなこともなく、サッと払っててくれてた。そういや、そのもつ焼き屋の在日朝鮮人のおばちゃんは、いつもお金いらんて言ってくる。そういや、おれがよく行く焼き鳥屋の大将は在日朝鮮人で、「いつも在日をありがとうございます」と、めちゃくちゃ歳の離れた僕に深々と頭を下げてくれて、この前なんか、この店のカクテキが美味しいというと、段ボールで、ただでくれたな。そういや、北九州の門司港で在日朝鮮人の親子に、いつもありがとうってすっごく感謝されてすごく強く手を握られたな、そういや、この前、大阪や東京の大きな場所で独演会したとき、在日朝鮮人の人たちが、たくさん告知してくれて、何枚も買って、給料安い朝鮮学校の、先生達に配ってたな、急にそんなことを思い出した。そして、ライブを主催してくれた、佐藤さんは何回も僕のライブに足を運んで、金持ちでもないのに、今回もぼくはギャラはいらない、と、ノーギャラで俺を呼んでくれた、しかも彼も東京からきてる、なかなかいいホテルも彼のお金で取ってくれた。前の夜に、そこまでしてくれる彼のことを疑って、実はおれがなかなか可愛い顔をしてるから、彼は実は男が好きで、おれの部屋に隠しカメラでもつけてて、おれの裸でも盗撮してるんじゃないの?って、半分ぐらいガチで思ってた。
彼は、そんなわけないでしょう、と言ったが、なんでそこまでしてくれるんですか?って聞いたら、一緒に飲んでる人で、在日朝鮮人の介護話施設をやってる、女性がいて、その女性とその女性の旦那さん、いやその家族のことが大好きで、彼らに喜んでもらうためですって、そんなことを言ってた。そんなことを思い出して、なんだなんだ、なんだよ、心が、モヤモヤする。
駅に向かう途中、知り合いに電話した。「なんかさー校長がさーおれを呼ぶねん、小学校やで?どう思う?」と、すると「いやとりあえず行ったらいいじゃん」と答えられた。多分俺は、その言葉を言って欲しかったんだろうな。「まあ、たしかに…」と言い電話をきり、佐藤さんに連絡をし、「あのー…行きます」と言って、またどでかいキャリーを、転がし、ホテルに戻った。佐藤さんに「校長は?」て聞いたら、「車で駅まで探しに行きました」と。こわっ!!!笑
校長が戻るまでの間、この近くに昨日の女性が働いてる介護施設があるらしくら一緒にいませんか、みなさん喜びます、と誘われた。おれは正直、いや、めんどくさー、と思った。だって、テンション低かったら、向こうに嫌な思いさせるでしょ、だから、いつもそんなテンション高くないおれは、一旦、テンションを、あげないといけない、これがなかなか疲れる。朝から介護施設で、知らないお婆さん達と写真撮影会かよー、このあと、は小学生、心の中で「間はないんかい!!」と何度も叫んだよ。在日朝鮮人の二世?ぐらいの年齢の人たちか、おばちゃんたちを、呼んで撮影会が始まった。おばあちゃんの中にはおれのことを知らない人たちもいて、「誰じゃ!知らんぞ!売れてないやろ!」と、売れてない芸人ヘイトスピーチを受けたよ。
何人ものおばあちゃんや、施設で働いてる人たちと写真を撮った。みんな朝から、元気でおれをみて、キャッキャとはしゃいでくれて、ダークなおれの心がぽかぽかしてきた。そのとき、校長が車でやってきて、僕は彼の車に乗って、京都の朝鮮学校へ向かった。
車内で校長は、もしよかったら「一言子供達に話してもらえませんか?」と、言われた。まじかよーーー、 一言ってなによ…。弟の5歳の甥っ子でさえ、話すとき、難しいのに、知らん子供に、おれは一体何を…。えーー、むずー。仕事でもないのに、なぜこんなに疲れることをしないといけないんだ、と、
向かってる途中校長が、この曲がり角に本当は「朝鮮学校の看板」があったんですが、いまは取り外してるんですよ」と、なんで?と聞くと「街宣車がきたんですよ、以前、小学校に。子供たちがいるのに、大きな声で、汚い言葉で朝鮮人はでてけ、だのなんだの、と。なんなら、さっきの介護施設にもきたんです、あのおばあちゃんたちに、向かって、「おいこじき」だの、なんだの、ここでは、口にしたくないような言葉を言うんです。警察に行っても、言論の自由を守るために、その発言をする人たちに危害が行かないように、ガードをするんです」と。「え、その発言をする人たちの方を守るんですか?」「そうなんです。それを彼らはライブ中継するんです、そしたら、それに、いいね、がついたり、いいぞいいぞーみたいなコメントも、いまは裁判で彼らは有罪になったから、少しは静かになったんですけどね、」と。
おれは思った。森喜朗の「女は話が長い、会議が長引く」なんで発言は、日本中が大騒ぎする、のに、彼らに対する発言は、なんで、広がらないんだ、在日の人たちにそれを言ったやつらは有罪になってるのに、なぜもっともっと報道されないんだ。「日本は差別がなくていい国」って言ったやつがいる、この場所は、彼らの視界にはないじゃないか。メディアは、おれのあんたらには関係のない恋愛報道は取り上げる、おれが何度朝鮮学校に行っても、とりあげない。本当に卑しいクソ野郎ばかりだ。芸能人でも在日朝鮮人の人たちはたくさんいると聞く。名前を通名にしてる人たちや、日本人に国籍を変えて帰化してる人たち、これ、知ってるだろう、おれなんかもうテレビに出てない奴が言うより、あんたたちが、一言言えば、この事実は広がるのに、そんな仕事がなくなるのが、そんなに怖いか、自分と同じルーツの子供やお年寄りが、こんな目にあって、人間として発言しないのか、いや、それらの怒りは、日本人へと向いた、在日朝鮮人だからではなく、子供とお年寄りがこんな目に遭ってるのに、気付かない、気付かないふりをしてる、人間として恥ずかしくないのか、沈黙は、黙認だ。知ってて止めないのは、認めてるのと同じだ。いじめをみてみぬふりする、そんなクソみたいな空気。そんなことを考えてたら、しっかり戦闘モードにはいってた。
車は朝鮮学校に到着した、目の前には体育館があって、そこには、ちびっ子達が沢山いて、僕の乗った車をいまかいまかと待っていたみたいで、車のドアが空き、おれの姿を確認した、彼らは、ギャーーーーと言って、興奮しだした。久しぶりのキャーに、少し照れ臭くなった。こんなにキャーキャー言われたのは何年ぶりだろう、テレビに出た時は学校に学園祭で行ったら、そうなったこともあったけど、いまは、テレビにも出てないから、そんな感性を浴びることはない、体育館に行ったおれは、子供に、なんで知ってんの?と聞くと「漫才を毎年見てる」と。その子は言った。わかった、じゃあ、話すわ、とおれはマイクを持って、シリアスな話をした。彼等を盛り上げにきたわけではない、彼等に刺さる笑いなんて持ち合わせてない。大人は、様々なことを、経験し、ガスがたまってる。だから、それを刺し、ガスを抜く。そのガスがたまるまえの、物事を経験する前のまだ真っ白な子供たちだ、申し訳ないが、それに、勝手な大人が、勝手に自分の話をし、色を塗らせてもらうことにした。それは、とある町で出会った女の子の話だ、その子は17歳の在日朝鮮人だ。彼女は朝鮮学校ではなく、日本の高校に通ってる。そんな彼女はよくひとりでおれのライブにくる。おれが在日朝鮮人の友達と出会ってから、できたネタなんかがいくつか、あって、もし、この中で在日朝鮮人がいたら、そのネタやるよ、と言って、朝鮮人はこのなかにいる?と聞いたら、一番前の席にいた彼女は、そっと手を挙げた。帰り際に、なんか、在日で嫌なことある?って聞いたら「この前、授業の時に、北朝鮮の話になったら、まわりのクラスメイトが私を見てくすくす笑った」と言った。
その話を子供達に話した。あなたたちはいま朝鮮人ばかりの中にいるから、それが普通だ、それが常識だ。でもここからでたら、違う常識がある、違う教科書を読んだ人たちがいる。だけど、世界なんてのはみんなそうだ、みんな違う教科書を読んでる。イスラエルもパレスチナも、違う歴史を、歴史を学び合わず、自分たちの歴史ばかりをただしいとおもう。どの国も。そして、その教科書を毎回こそこそと書き換えるやつがいる。
しかし君たちは”在日朝鮮人”ていうだけではない、僕も日本人というだけではない、今日の君たちは、おそらく、国籍は同じだけど、好きな食べ物は違う、家族の関係も違う、お父さんがいなかったり、お母さんがいなかったり、女の子が好きな男の子もいれば、男の子が好きな男の子もいるかもしれない。おれなんか、親が仲悪くて、夏休み明けの学校は大変だった。みんなどこかに旅行に行った話ばかりしてて、おれは行ったことなかったから、話を合わせてた。親に旅行に行きたいと言ったこともあったかもしれない、それは旅行に行きたいわけじゃない、みんなと違うのが嫌だったからだ。自分がまわりと違うことが怖かった。もし、この中で男の子が好きな男の子がいたとする。そんな人を、いつかクスクス笑ったら、君たちが、外に出た時、北朝鮮という言葉でクスクス笑われるのと同じことなんだよ。誰かが、痛そうにしてたら、優しくしなさいよ。
そんな話をずっと話してた。
まあ、いつか大人になったら、仕事して、今日の日のギャラ分、払ってくれ、じゃあな、と言って、終わった。
まあ、そのあとおれは余計なことを教えたかもしれないと思った。「北朝鮮って言葉がでてきてクスクス笑われた」てのは彼等の話ではない、違う誰かの話でしかない。だから、これを話してしまったから、今後、笑われることがあれば、北朝鮮を笑ってるのかな、とか、彼女に振られたら、自分が、朝鮮人だからなのかな、とか、それに勝手に繋げてしまうことになる。でも、それをいつか経験するかもしれないししないかもしれない。
朝鮮をネガティヴに捉える人ばかりではないのに、朝鮮を、国籍を、自分自身が、劣等感に感じてしまったら。おれが、あの頃、夏休み明け、旅行に行ったことないことをネガティヴに捉えて、隠したのと同じように、隠すようになってしまったら、と。
ライブ終わりに写真撮影をすることになった。あいつらはすごい、それまで真面目に話を聞いてたのに、途端に、カチッ!とスイッチが切り替わり、全員がおれの膝に乗ったり、抱きついてきた。もみくちゃにされた。握手して、と言いながら、一本の手を何人ものちびっこ達が、つかんできた。しょうがないから、指一本づつ握らせたら、強い力でブンブン振り回しがったから、痛くて痛くて。
一人の子供は、漫才で在日のこと言ってくれて、ありがとうございます、と言ってきた。漫才大好き、と言って飛びついてくるやつもいた。子供に見つかった時の犬の気持ちがわかった。こんなに、雑に戯れてくるなんて。こんな時間もまあ悪くなった。
終わりで。生徒が並んで、前の人と手を繋いで、ここを通ってくれ、と言われたので、彼らの中を通るんだけど、やつらの背が低いから、おれは四つん這いで、その中を通った、けつを、触ってくるやつもいた。
最後に、昨夜、おれに学校に来て欲しいと言ってきたお母さんが、涙目で本当にありがとうございました、と言った。そしてそのお母さんはおれに「実はわたし…」と言ったから、まだなにか、あるの!?と思ったら、「今日誕生日なんです!!!」と言ってきた。思わず、知らんがな、と言いかけた。実はブラジル人です、ぐらいの顔で話し出したから、誕生日ですって。でも、おめでとうと言ったらすごく喜んでたのでおれも、なんか幸せな気持ちになった。
校長に車で京都駅まで送ってもらった。校長はとても感謝してくれた、ありがとうございました、と言って運転してた彼は、しばらくして、またこっちを振り向いて、本当にありがとうございました、と。お礼を言われた。その朝鮮小学校に行った話をインスタのストーリーズに載せたら、100件近くの、ありがとうが、DMできた。その中のメッセージで「なんでそこまでしてくれるんですか?」と書いてたので、その理由を書こうと思って、これを書いた。そして、友達の在日コリアンの女性が、メッセージをくれた。
「暗闇の中で光は見つかる」って
いつも村本さん仰るけど、
中学生のときも、手術直後も
私にとっては村本さんがそうでしたよ
You have kept telling me that everything’s okay
と、彼女は中学生のとき、おれの漫才に出会ったらしい。彼女はおれのよくいくカフェの店員さんで、留学経験があり英語を話せるので、店で、たまに教えてもらってた。しかしある日彼女はそこにはいなくなってた。他の店員さんに聞けば、身体を悪くし、地元の大阪に戻り、手術した、と。脳の手術だったので、いまも半身は麻痺してるらしい。その時お見舞いにいった、手術の直後というのはその時のことだろう。
「暗闇の中で光が見つかる」っておれがいつもいうんだけど、それはおれが出会った人たちに教えられたことだ。被災地に行った時に、知り合った彼らは、とても笑っていた。おれは思う、暗闇の中でこそ、光は見つかる、夜にならないと星が見えないのと同じように、本当に悲しい時こそ、笑いは見つかると思ってる。そしてその在日の彼女は、おれを「光」と言ってくれた。
もし、在日朝鮮人の人で、おれをそのように思うならば、それは、最初に言った通りの、重たい懐中電灯。なんならすごくめんどくさがりで、このカフェで、働いてた女性は美女で、英語を教えてくれて、話していて楽しい、そしていいやつだ。それを知っている、だから、そこにいく。しかし、介護施設のおばあちゃんや、ちびっこたちには、会う前まではどんな人か、パーソナルな部分は、知らない、知らない子供とおばあちゃんだ。だから今回も、おれという懐中電灯はスタコラサッサと京都駅に逃げ出してる。腰は重いし逃げ足は早い。
そんな重い懐中電灯をあの場所に運んだのは、ライブを主催した佐藤さんであり、校長先生であり、その日、誕生日のお母さんであり、「行ってきたら?」と電話越しで言ってくれた人であり、さらに遡ると、大阪のもつ焼き屋で、見ず知らずのおれに、何も言わず会計済ませてくれた在日の人であり、ライブの告知を手伝ってくれた、チケットたくさん買ってくれた在日朝鮮人の友人であったり、北九州で手をギュと握っておれを言ってくれた親子であったり、いつもの焼き鳥屋の大将であったり、彼等の、ひとつひとつの、想いが、ずっしり重い、懐中電灯のようなおれを、そこに運んでくれた。漫才でも、おれに、在日朝鮮人のことを話してくれて嬉しいというが、おれが話したんではない、彼らの想いがおれにそれを話させたんだ。
だから、もし、あの場所にいた朝鮮の子供たちが、おれにそんなことを思うならば、これをいつか読めるようになった時に、知っててくれ、あの場所におれを運んでくれる人たちのことを。彼らは君たちを愛してる。たとえ、日本人に帰化しても、それを理解してくれてる。君たちの好きなように生きろよ。そして、彼らのように、思いやりのあるひとであれよ。君たちは愛されてるな。またどこかで会おう。学校の前に到着し、車の扉を開けた時の校長は、君たちにクリスマスプレゼントでも、持ってきたかのような顔をしてたぞ。オモニは「わたし誕生日なんです」て自分のプレゼントみたいな顔だったけど笑
もし悲しい時とか腹が立つ時は、おれの独演会に来い。ガンガン光を当ててやるよ。
※この記事は村本大輔さんの5/29のnoteをそのまま転載しました。
村本さん。ありがとね😢
ああああ~ 自分 「재일동포」でほんとによかった~😆
機関銃みたいなトークで休み暇もなく話すので、文章が長すぎるぜぇ。喋っているのをそのまま文章に起こしているのか、読むのに本当に苦労した。でも村本が言わんとしてる事はわかる。村本は口汚くても心はすごく綺麗だね。まるで同級生の誰かさんみたいだ(笑)
こういう人たちがもっと増えてくれたらこの日本も少しは住みやすいと思われるんだがねえ。
同じことを思いました。笑
「口が汚い…」とは、ちょっと違うような気がします。本質をズバリ言葉にするので、鋭利に聞こえますが、決して下品な言葉遣いはしていないと思います。
そうだね、ニュアンス違うね。辛辣だとか、鋭いとかそんな感じですね。
そもそも「口汚い芸人」を学校に呼んで、大切な子供たちの前で話させるわけない~です😢
ウーマン村本の恋人は、松田優作(在日)の娘 松田ゆう姫💕
結婚式で、パジチョゴリとチマチョゴリ着てくれれば~💕
なんとなく~ 運命を感じるなぁぁぁ~💕 気が早いねぁ~💦