対北強硬派とされる尹錫悦大統領の就任から4か月余り。朝鮮半島で南北対立が激しさを増すなか、日本でも本国さながらの南北代理戦争が連綿と続いてきたことは知られていない。その舞台となったのが在日本朝鮮人総聯合会(総連)と在日本大韓民国民団(民団)だ。『決別 総連と民団の相克77年』を上梓したジャーナリスト・竹中明洋氏が両組織の水面下の工作活動をリポートする。(文中敬称略)【前後編の後編。前編から読む】
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「何が起きたのかさっぱりわからなかった」
ソウルの国立劇場で起きた朴正煕夫人銃殺事件をそう振り返るのは、民団大阪府本部で民生部長だった洪正一(ホン・ジョンイル)だ。関西各府県の民団関係者が参加した祖国訪問団の引率として1974年8月に韓国を訪れていた。金大中拉致事件から1年。日韓関係を揺るがす事件が再び起きたのである。その発火点もまた、日本にあった。
洪正一らが大阪からソウルに到着したのは8月14日。翌日には国立劇場で独立を祝う光復節の記念式典が開かれることになっていた。
「劇場への入場券は関西の民団への割り当てとして150枚ありました。前日の晩にホテルで一人一人を回って身元を確認しながら配ったのを憶えています」
洪正一はそう話す。会場に入ると、劇場のゲートの方から「日本語がわかる人いませんか?」と声がかかったという。
訪問団の団長でもあった民団大阪の沈在寅副団長が名乗りをあげると、会場の警備にあたる警察官が「通訳してほしい」と頼んできた。
警察官の前には一人の若い男が立っていた。
「自分は日本の伊藤忠の商社マンです。10時にここで日本の大使と会う約束になっているので会場に入らせてほしい」
男が日本語でそう言うのを通訳して伝えると、警察官は「入れ」と許可した。若い男は1階の空席に座った。
ステージ上で大統領の演説が始まる。すると男は腰に隠していたピストルを抜き演壇に向かって走り出した。男は発砲したが、朴正煕(パク・チョンヒ)はとっさに演壇の陰に身を潜める。続けて撃った銃弾がステージ上にいた大統領夫人・陸英修(ユク・ヨンス)の頭部に命中。夫人は救急搬送されたが助からなかった。
洪正一は式典後に警察から呼び出しを受けた。出向くと、担当はいきなり「文世光(ムン・セグァン)を知っているか」と聞いてきた。知らない人物だ。その時に初めて犯人が大阪生まれの22歳の在日韓国人・文世光で、訪問団一行と同じホテルに泊まっていたことを知った。
警察は訪問団との関わりを疑っていた。
「これはまずい。万一、前日の晩に自分が配った入場券を使って文世光が会場入りしていたらどうしよう。そう考えると気が気でなかった」
洪正一はそう振り返る。
逮捕された文世光は韓国の捜査当局の取り調べに供述を始める。その内容を要約すると、きっかけは1972年に文世光が参加していた在日韓国青年同盟(韓青)と在日本朝鮮青年同盟(朝青)の合同大会だったという。韓青はもともと民団傘下の青年組織だったが、朴政権を支持する民団執行部と対立し、総連傘下の朝青と関係を深めていた。
この大会で文世光は総連生野西支部の政治部長だった金浩龍(キム・ホリョン)と知り合う。当時の総連では政治部といえば、対民団や対南工作を担当していた。金浩龍が文世光の自宅を訪問して北朝鮮の革命路線を教えるうちに文世光も同調するようになる。
1974年5月には金浩龍の指示で大阪港に入港していた北朝鮮の万景峰号に乗船し、船内で北の工作指導員の男と会ったとされる。工作指導員は文世光に人参酒と食事を勧めながら、「南朝鮮に人民民主主義革命を起こすためには、社会を混乱させ、朴正煕を暗殺するしかない」と指示。文世光も革命のために命を捧げると誓ったという。
その2か月後に文世光は大阪市内の交番から拳銃を盗み出し、韓国に入国。トランジスタラジオの中身を抜き、そこに分解した拳銃を隠して持ち込んだという。
楽しい事しか頭に入らなかった学生時代。
朝鮮半島と日本で何が起こっているのかさえ知らなかった。時折見かけたニュースで悲しい韓国の現状は知っていたが、心に多くを留める事も無く‥‥
今朝は頭の中がごちゃごちゃ。
新聞を一気読みした気分。
知っておかなきゃならないニュースなんだろうけど、どうしても目をそらしちゃいたくなくなっちゃう💦
大変な時代だったんだろうね😢
真相は闇の中?🤦♂️