春のうららかさを感じよう

波乱とドラマに満ちた生涯ー鄭周永

1998年6月16日、日本の新聞は大きな写真入りで韓国「現代」の名誉会長一行による北朝鮮訪問の記事をかかげた。これを見て在日同胞も一様に驚きと喜びの声をあげた。

当時の新聞記事には「韓国・北朝鮮 牛が懸け橋ー500頭きょう引渡し」「韓国の財閥・現代グループの鄭周永名誉会長(82)の一行が16日、農業支援用に寄贈する牛500頭とともに板門店経由で北朝鮮入りする。牛は現代グループが経営する韓国忠清南道の農場で飼育されたもので、15日までに検疫などの手続きすべて終え、50台のトラックで16日午前9時に北朝鮮側に引き渡される。韓国の民間人が北朝鮮側との合意を基に、板門店を合法的に通過して訪朝するのは南北分断以降初めて。鄭名誉会長らは23日までの滞在中、北朝鮮当局と朝鮮半島の名勝地・金剛山の共同観光開発事業に関する協議を行う。」(毎日新聞)

「鄭氏は北朝鮮・江原道通川の貧しい農家の出身、境界線通過を前に板門店で記者団に、1933年に18歳で家出した時を回顧し、『ソウルを目指して駆けたこの道、板門店を通り故郷を訪ねることになりうれしい』との談話を発表した。」「その後、牛五百頭をさらに追加支援する意向だ」(読売新聞)と伝えた。

これらの記事に見られように、北の貧しい農家の出身である鄭周永氏が、悪戦苦闘を積み重ねながら韓国を代表する最大の財閥である「現代グループ」を築きあげた後も、つねに「故郷と民族」を忘れることなく熱い心情を持ちつづけたところに、彼の一生を貫ぬく特徴があると思われる。

このところに留意しながら、彼の伝記を簡潔にふりかえって見よう。

故郷・通川と父母

朝鮮の東海岸、有名な金剛山の北に通川という町がある。鄭周永の故郷はそれより北方へ松田という小さな村を通りぬけて1時間ほど行った峨山里である。(彼はその故郷の名を自分の号としている)

祖父は村の書堂で漢文を教えていたが、50戸ほどの村で生活の足しにならず、家計の責任は長男である父にかかっていた。父はわずかな田畑で黙々と働き、荒れ地を開墾して農地を拡げ、水を引いて田を増やす毎日であった。その背中を見て育った鄭周永は、人間の生きざま、特に長男の果すべき責任と役割について、幼い頃から深く刻みこむものがあった。(彼も6男2女の長男)

しかしながら、小学校を出て父に従い、本格的に農業を学びはじめるようになると、自らの将来について、何度も何度も考えざるをえなかった。

若き日の鄭周永(中央)

「おれは一生、ゆっくり腰を伸ばす暇もなく、死ぬほど働いても腹一杯食べられない農夫で終わってしまうのか…」
幼い頃から希望していた上の学校に進学して、学校の先生になる夢はあきらめるにしても、とにかく活気ある都会に出て、創造力を発揮して力一杯働き、「苦学して弁護士試験に合格し、新聞の連載小説『土』(李光洙作)の主人公の許弁護士のような立派な人間になってみたい」と思うようになっていた。

初めて家出して高原の鉄道工事場で働いていた時も、その後、三度目に牛を売った金70円を盗んで家出した時も、父に見つかってしまい連れ戻された。

しかし、家に戻り懸命に働いても再び凶作に見舞われ、極貧のために父母の争うのを見るにつけても「このままでは駄目だ。何があってもソウルに出て、成功してみせる」と四度目の家出を決意した。17歳の春のことである。

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1 COMMENT

ブタ🐷も欲しいよね~

一代で財を成した代表格ですね~👍
当時、このニュースを見てた私は、わくわくして小躍りした記憶がある~😊
良いな~カッコいいな~ こんな人生を歩みたいな~と😊
で、その後 牛たちはどうしているんだろうか? バリバリ働いてくれれば良いんだけど~🐄

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