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波乱とドラマに満ちた生涯ー鄭周永

ソウルでの「社会活動」

やっとの思いでソウルに着いたものの、どこに行っても日雇い労働しかなく、いくら働いても飢えを凌ぐのがやっとであった。もっとよい仕事がないものかと探しまわる中に、「福興商会」(米穀商)の配達係りの職にありついた。そこは昼食と夕食が出るうえに、月給は米1俵であった。

安定した職場の中で、彼の仕事ぶりが認められるようになった。どんなことにも手抜きをしない彼の性分から、毎日誰よりも早く起きて店の前をきれいに掃除をし、一日の仕事を始めるのであった。そして熱心に仕事をするだけではなく、古いやり方を改め、近代的に帳簿に記録し、倉庫の在庫品もきれいに分け、一目で在庫が解るようにした。店主は喜び、新しい自転車を買ってくれた。月給は米三俵に上がったが、彼はさらに最善の努力を重ねた。

この時期に彼の仕事の哲学が確固となったようである。「これ以上やることがない最後の最後までやり尽くす最善」「馬檎 吉陥(やれば出来る)」というものである。

1930年頃の京一商店があった新堂洞

ついに店主に見込まれて「福興商会」を引き継ぎ、1938年1月、ソウル一の米屋になると「京一商会」に改め、繁盛させるが、日中戦争のため米が配給制とな真り、店を整理せねばならなかった。貯金してあった金を持って家出後、初めて故郷に帰り、父のために二千坪の田を買い,親孝行をして、また故郷で結婚もした。

翌40年、再びソウルに出てきた彼は優れた技術者と金貸しの援助を得て、免許なしで自動車修理工場「アドサービス」を始めた。いろいろ困難はあったが「全力を尽くす」彼の姿勢が信用となり事業は発展した。彼は現場で常に工員とともに汗をながした。この過程で自動車部品を覚え、その機能を全て理解するようになった。これが自動車業界にかかわりをもつ契機となった。

新婚時の鄭周永

しかし、この会社も戦争末期の統制により日本人の会社に合併され、手を引かざるをえなかった。

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1 COMMENT

ブタ🐷も欲しいよね~

一代で財を成した代表格ですね~👍
当時、このニュースを見てた私は、わくわくして小躍りした記憶がある~😊
良いな~カッコいいな~ こんな人生を歩みたいな~と😊
で、その後 牛たちはどうしているんだろうか? バリバリ働いてくれれば良いんだけど~🐄

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