京釜高速道路の推進「現代自動車」「現代造船所」建設
鄭周永において波乱万丈の事業活動の中で、国産自動車の生産と世界的な規模を誇る蔚山の造船所建設は特筆すべき大事業であった。これを述べる前に、京釜高速道路建設について簡単に述べてみたい。
国土の動脈ともいうべき京釜高速道路建設は、ソウル首都圏と嶺南(慶尚南北道)の工業圏を連結させ、2大貿易港である釜山と仁川を直結させるばかりでなく、韓国全体を1日生活圏としてしまう産業・生活文化の大動脈となる。まさに朝鮮の歴史が始まる檀君以来の最大の土木工事であった。
鄭周永は最低の工事費で入札し、わずかでも利益を残すため「工期の前倒し」を事業戦略とし、かつ工事参加者の人命尊重を優先するため、最新大型機材を大胆に導入した。そして合理的に工事を進めるため、自身はほとんど眠らずに飛び回った。彼の牽引車的な役割によって、全長428キロ、国家予算の実に4分の1を費やした高速道路は、1968年2月1日着工、予定通り2年5ヶ月で、1970年7月7日に竣工式を挙行した。皆が熱い使命感をもって総力を傾むけた大工事であった。
1967年12月、彼は長年の夢であった自動車産業に参入すべく現代自動車の設立許可を獲得した。当時、韓国には乗用車市場を独占する「新進」と、三輪車を生産する「起亜」があった。
自動車工業は、一国の経済指標となる基本産業である。当時、韓国の経済成長は年平均8.5%を記録していた。必然的に自動車工業の育成が課題となっていた。
67年、「現代」はフオード社と技術提携を結び、68年には「現代自動車」として蔚山市陽定洞に工場敷地を買収し、自動車工場と機械設備建設を同時に推進した。現場の責任をまかせられた弟の世永は、部下を日本のフオード社に送りアフタサービスの研修を受けさせ、オーストラリアにも生産技術研究のため人を送り、またアメリカの大都市のフオード代理店に人を送り販売研修を受けさせた。新入社員の採用に当たっては英会話能力を優先させ、批判を受けることもあった。
現場の責任を任された弟の世永は激務のため髪の毛がすっかり抜けてしまうほどの仕事をやりとげた。当時の社員は現場で顔を洗う時間も、髭を剃る暇もなく仕事をしたという。こうして工場が建設されてわずか6ヶ月目に自動車生産をやり遂げた。驚くべきスピードである。
11月1日、世永が最初の現代自動車「コーティナ」1号を駆って高速道路建設を指揮する兄の前に現れた。鄭周永はそれを見て、嬉しさをかみ殺し、ただ一言「수고했소(ご苦労さん)」と言ったという。
ただし、社員全員の奮闘の結果生まれた「コーティナ」は非舗装道路の多い韓国の事情に合わず、またいくつかの悪条件がかさなりあっけなく販売に失敗してしまった。「コーティナ」は「코피나(鼻血が出る)」とあだ名を付けられ、倒産寸前まで追いこまれた。
それに追い討ちをかけるように政府は韓国では一社にエンジン生産を一元化する方針を打ち出した。鄭周永は直接朴正煕大統領に訴えた。「自由競争を通じて企業は発展するのであり、これをやめれば共産圏の国営企業のようになるのは明らかです。また外国からの合弁投資を優先するというが、そうなればいつ国産車の生産が可能となるのでしょうか?」
その後、小説以上の紆余曲折の末、いくつかの困難を克服して周永と世永は韓国の地形や実情に合う小型車開発に活路を開くべく献身した。1976年1月、現代のオリジナル一号「ポニー」が誕生した。
「ポニー」は国内ばかりでなく、誕生前から海外62カ国228社から輸入希望が集まるほどの爆発的人気となり、「現代自動車」は「現代」グループの中でも最も重要な企業となった。
鄭周永は「自動車は《走る国家》である。その自動車が、それを生み出した国家を象徴するのであり、ポニーを生み出した韓国には《世界で一番優秀な技術者》、すなわち人材があるから夢があるのだ」と語っている。
さらに彼はいう。「企業家はつねに、より新しい仕事、より大きい仕事を熱望する。この情熱こそが、企業家がもっているエネルギーの源泉なのだ。」
それ以後、現代自動車は1997年上半期まで1070万台生産し、そのうち450万台を輸出したという。
鄭周永は早くから造船にたいして関心を持っていた。すでに1960年代の前半、造船業を夢みて幹部と2日をかけて横浜、川崎、神戸の造船所を視察している。
1970年代になって韓国政府は製鉄、総合機械、石油化学、造船を国家事業として育成する方針を打ち出した。彼は朴大統領に呼ばれ、資金の援助は出来ないが、造船業を始めよといわれる。彼は出資者を募るが経験も、実績もない企業に出資は無理なことであった。しかし彼は夢のような「船」建造のため蔚山の敷地の購入を始めるのであった。
彼は造船所建設と船舶建造を並行して推進し、ドックを掘っている間、1号船をドッグの外で部分組み立てをし、ドックが完成すると、外で組み立てたものをドックで建造をつづけた。同時に、防波堤を作り、海を浚渫し、岸壁を造り、工場の建設を継続した。起工式から2年3ヶ月で造船所を建造し、同時にタンカー2隻を建造したことは、世界造船史に残るあたらしい記録であった。
「現代造船」は1975年、最大建造能力100万トン、敷地150万坪、ドライドック3基、240万トンの施設能力を備えた世界最大の造船所となったのである。
彼は言う。「人間の精神力というのは計量できない無限の力をもっているもので、すべての仕事の成功と失敗、国家の興亡も、結局はその集団を構成する人間の精神力に左右されることを、私はこの建設を通じて切実に感じ学んだ」、「私は職員たちに心の底から連帯と尊敬を感じた。そうだ、みんな努力しあって一日も早く豊かな国家を作ろう」。
鄭周永の年譜をみると、その活動の多様さと情熱の燃焼の激しさに驚くばかりである。この小文は、彼の自伝『この地に生まれて—私の生きてきた話』(ソウル出版社)などを参考に綴っているのであるが、彼は平凡人の何百・何千倍も激しく豊かな活動をしている。
中でも1977年、彼は「現代建設」の株の50%を「峨山福祉事業財団」の設立に献金したこと、そして医療、社会福祉、奨学事業などに巨額の支出をし、その受益者の延べ人数は、すでに韓国の総人口を上回っていることも忘れてはならない。
終わりに、彼が北朝鮮を訪問し、金剛山のみならず北半部の経済の発展に関心をもち、さらには祖国の平和的統一と豊かな未来のために活動したことを述べねばならない。
その彼の念願を象徴するのが、冒頭に述べた牛500頭をつれての訪北であった。彼は優しい大きな目を持ち、黙々とねばり強く働きつづける朝鮮の黄牛に自分の生き方を重ね、黄牛を愛していた。さらに、少年の頃その牛を売った金を持って故郷を離れたことに生涯忘れぬ罪悪感をもっていたのである。
1998年10月27日、黄牛501頭を率いて二度目の公式訪北。「牛歩の千里が統一への第一歩となるように」との念願からだった。合わせて1001頭というのは、これから新しい第一歩となるようにとの願いをこめたもので、多くの人の共感をえた。
人々は、彼の行動に含まれる歴史性と象徴性を高く評価したし、これはさらに金剛山観光という大きな成果のみならず、北について南の人々の新しい認識と、南北関係の新しいパラダイムを構想する画期ともなったのであった。彼は、それ以外にも西海の工業開発事業、自動車組立工場建設など南北経済協力事業を推し進めようとした。具体的に「現代」は南北経済協力事業の専門会社として「現代峨山」を作り上げ、それは大きな実を結びつつある。
韓国経済の牽引車となって走りつづけた鄭周永は2001年3月21日、人びとに惜しまれて他界したけれども、彼の志は彼の息子や同志たちに引き継がれ、これからも障害をのり越えて大きな結果を残して行くであろう。
〈科学と未来〉から抜粋
一代で財を成した代表格ですね~👍
当時、このニュースを見てた私は、わくわくして小躍りした記憶がある~😊
良いな~カッコいいな~ こんな人生を歩みたいな~と😊
で、その後 牛たちはどうしているんだろうか? バリバリ働いてくれれば良いんだけど~🐄