窓の外を眺めながら…

クリスタル・ケイの母シンシア「東京で店やりなよ」夢を後押ししたHIROの誘い

“関内の歌姫”と名を馳せ、人気シンガー、クリスタル・ケイを女手ひとつで育てたシンシア(60)。本名は鄭舜慧(テイ・シュンケイ)。生まれは東京・羽田で、3人姉妹の長女として育った。

歌手クリスタル・ケイ(36)を女手ひとつで育ててきたシンシア。自身も歌手として活躍していた。還暦を迎え、波瀾万丈な半生を振り返る。


ひとり娘でシンガーのクリスタル・ケイを、自身の個人事務所からEXILE HIROが会長を務める大手芸能事務所『LDH JAPAN』に託したシンシア。ひとつの大きな役目を終え、第2の人生として新たなスタートを切ることに─。

夢だったお店を5年前に開店「確かな場所がほしかった」

シンシアの店にはイギリスのアンティーク家具が並ぶ。今はなき横浜の老舗バー「マジック」をイメージし、横浜らしさを醸している

「私の中に“ゆくゆくは地元でお店を”というひとつの夢がありました。だから娘が移籍して『シンシアさんはこれからどうするの?』とHIROさんに聞かれたとき、『私は横浜で飲み屋でもやりますよ』と言ったんです。ただそこでHIROさんから『店を開くなら東京においでよ!』と誘われて、バタバタと場所を探し始めて─。クリスタルにも相談しました。『飲み屋をやろうと思うんだけど』と伝えたら、『いいんじゃなぁい?』なんて、いつもの調子で言ってましたけど(笑)」

5年前、東京に会員制スナックをオープン。当時55歳で、知識もスキルも何もない異業種へのチャレンジだった。

「飲食の経験といえば、10代のころに母の焼き肉店を少し手伝ったことがあるくらい。でもその後すぐ家出をしているので、経験といえるほどのものではなくて。

ノウハウも何もなかったけれど、とりあえず5年頑張ってみよう、それでダメだったら諦めよう、という気持ちで始めました。店は約10坪で、15人も入るともうパンパン。でもそれくらいがちょうどよかった。小さくてもいい、手の届く確かな場所がほしかった。

芸能界というのはとかく不安定な世界で、何度も壁にぶち当たってきました。いちばん大きな危機は東日本大震災で、芸能界がばったり止まり、7か月間仕事がなくなってしまった。娘と2人の個人事務所だったので、次に何かあったら母子共々倒れてしまう。LDHに娘を移籍させたのも、その経験があったから」

歌を歌っている時間が何より幸せ

「早いもので、店をオープンして今年で5年。娘もちょくちょく顔を出してくれますね。私も当初は緊張しっぱなしだったけど、今ではお客さまと一緒に飲んで歌って、誰よりも早くベロベロになっています(笑)」

スナックの切り盛りと並行して、自身もシンガーとしての活動も続ける。ホームは横浜・関内のライブハウスで、昔なじみのファンも多く足を運ぶ。

「お客さまは古くからの知り合いが大半で、もう応援団みたいな感じ(笑)。だから地元で歌っているときがいちばん楽しいし、今は歌を歌っている時間が何より幸せです。

私も今年60歳の大きな節目を迎えます。いろいろなことがあったけど、今は“これからが本番!”という気持ち。ここから先は、自分のやりたいことを、思い切りやっていこうと思っていて……」

19歳のとき横浜で歌を歌い始め、“関内の歌姫”と名を馳せた。しかし娘が同じ道を歩み始めたとき、自身は裏方にまわろうと決めた。

「10代で家出し、20代で離婚して夫や家族にも頼れなかった。私たちには支えになるものが何もなく、娘と二人三脚で走り続けるしかなかった。

小学生のときブラックミュージックと出会い、虜になり、いつしか私自身も歌を歌うようになっていました。歌は大好きだったけど、母子2人きりで生きていくうえで、裏方にまわることは切羽詰まっての決断でした」(次回に続く)

週刊女性2023年2月7日号