1950年代後半、多くの在日同胞は生活苦にあえいでいました。職業差別や就職差別などにより土木建築の日雇い、くず鉄商、飲食業など限られた職業に従事せざるを得ず、日本企業への就職はほとんどすることができませんでした。在日朝鮮人の完全失業率が日本人の8倍であり、生活保護率も日本人の10倍以上という数字がその表れでした。
1958年10月「祖国への帰国実現を要請する東京朝鮮中高学校教職員学生大会」が行われ、教員学生たちは帰国への思いを訴えました。
この校内集会の20日後、朝日新聞(1958.11.20)に次のような衝撃的な記事が載ります。
「ソ連領経由で北朝鮮へ・密航を企て漂流・東京の朝鮮学校生4人」との見出しで「19日朝、北海道ノサップ岬沖で漂流し救助を求めている4人乗りの伝馬船(約2t)を漁船が見つけ、花咲港に送り返した。根室海上保安署で調べたところ、4人はいずれも東京都北区上十条2ノ22朝鮮中高級学校の高等科2年生とわかった。4人は船を歯舞村温根元部落から盗んでおり『北朝鮮に帰るつもりで水晶島に渡ろうとした』と述べた。同署は4人を盗みと密出国の疑いで20日釧路家裁に送致する。」として帰国失敗までの経緯を詳細に報じました。
この出来事は当時の在日同胞たちに大きな衝撃を与えます。全国の朝鮮学校の学生たちはこの事を話題にし、彼らの行動に共鳴し、帰国運動を大々的に繰り広がる大きな契機になりました。
ネットでは、この帰国事業をとやかく言う政治家や評論家、ネトウヨと呼ばれる人達がいるが、その当時は本当に日本では生活が出来なく帰国した人が大半だった。
(勿論過大宣伝もあったけど)
中には自ら進んで祖国の為に力になりたいと帰国した人、自分の夢を実現する為に帰国した人もいた。
でも、一部では素行が悪くて強制的に帰らされた?人もいたと聞いたが…笑
もちろん帰国した同胞の中には28期の同級生も多数いる。
大切なのは、生活に困窮していた当時を忘れて少なからず生活が安定した現在の目で判断はしたくない…と思う。
ちょっと重い話しになったけど、すみません💦
私も歴史的な経過は客観的に見る必要があるし、その中で我々も育ってきたので、その時代の組織批判や制度批判をする意図はありません。70年代に入って少し素行が悪い人たちは社会主義祖国に行ったら少しはマトモな人間になるんじゃないかと帰った私の同級生もいました。また夢膨らませて帰国した同級生もいましたね。そんな時代に翻弄された時代をふり返って、改めて「在日」とはと自分に問いかける時間をほんの少しもらったような…気持ちになりました。
28期の同窓生も何人か、帰国しましたね。
第1の女子二人(高・全)も78年3月卒業直後に帰国、歓送会を上野・東天紅近くの居酒屋で行った事を憶えています。
また私の姉たちも自分の意志で単身帰国しました。(長女1965年・次女1972年)
中1になる72年春、新潟港で見送り (万景峰号)
そのお姉さんの旦那さんが上の写真の人物です。(金日成首相・当時の隣の男子学生)
東京からの帰国者で、慎吉雄前校長もよくご存知です。
自分も祖国訪問の際に何度かお会いし、一杯飲みました。
姉さんの旦那さんは、金日成綜合大学の先生でしたが、10年ほど前に病気で他界されました。
昨年9月祖国訪問した際には、姉さんと共に3人の娘さんたちと会えて、食事しながら楽しい時間を過ごせました。
みんな素直で可愛い。「サンチョン」冥利につきる(笑)
コロナ禍もあり、今度またいつ会えるのやら…ですね。
少なからず「何か」を求めて帰ったのだと思います。
考え抜いた判断、大尊重いたします。
推進した組織も勧めた親御さんも「まさか」だったのでは無いでしょうか。
後が悪すぎると思います。
2度と帰れない(日本に)と解ってた人はいるのでしょうか。
帰国事業が間違っていたのではなく、その後の国の体制が問題なのだと、個人的には思います。
この話しになると兄弟でさえ意見の違いでケンカになります。
あまり話したくないけど・・。すみません。