春のうららかさを感じよう

多面的な企業家の生涯と業績ー金性洙

金性洙の一生は、近代朝鮮の誕生と成長を象徴している。1891年、全羅北道の南西部に位置する小さな村、仁村里で両班地主である金暻中の4男として生まれた。ところが父の兄(伯父)の金棋中の家に男子がなく、養子となった。3歳の時であったが、両家は隣接して住んでいたから、生家と離れたわけではない。また、注意を引くのは、まもなく両家は港のある茁蒲に移住していることである。

その頃、急増していた農民軍(農民として生活できなくなった者たちによる部隊)の襲撃を度々受けていたし、何よりも大地主として生産した米を日本に輸出するに好都合であった。こうして兄弟は1910年代から20年代にかけて、田地を増やし、20年代になると年間2万石の米を収穫するまでになった。(両家で土地は2000町歩以上だったという)

青年時代の金性洙 1930

金棋中兄弟は大地主であったばかりでなく、官職にも進み、金棋中は現在の和順郡の郡守、金暻中は現在の錦山郡の郡守になったが、1905年、朝鮮が日本の保護国となるに及び、郡守職を辞職した。当時、愛国啓蒙運動によって民族の自強をはかろうと、地方ごとに「学会」が組織されていたが、兄弟は湖南学会に加入し、月刊学会誌「湖南学報」発刊の理事となり、また主要な財政的後援者となった。

金暻中には儒学に基づく小冊子「吾道入門」および「朝鮮史」(17巻)を残している。

このような金兄弟の生涯を概括するなら、朝鮮王朝の亡国を体験しながら、豊かな全羅道にあって、かなり改革的新しい学問を学ぶため日本留学を決意し、宋鎮禹と共に東京へ向かい、正則英語学校、錦城中学校を経て、早稲田大学に入学、1914年政経学部を卒業した。すでに母国は日本の植民地となっていた。「自国の独立を回復するためには、まず民族の教育が必要だ」と考え、帰国するや1915年4月中央学校を入手し、1917年には校長となった。また同じ年、京城織紐株式会社も引き受け経営を始めた。

1919年1月から、中央学校宿直室に宋鎮禹、玄相允などと泊まりこみ独立運動の展開を討論したが、その結果が同年3・1独立運動となったことは、よく知られている。

同年10月、わが国に近代的工業を発展させなければならないとの念願から京城紡織株式会社を作りあげ経営を始めるのである。翌1920年4月からは「東亜日報」の発刊も実現する。

このように、彼は父が築きあげた資産を基に、旺盛な気力と企画力をもって、国家の独立と人々の生活の向上のため、主として次の三つの部門に力を尽くそうと決意したのである。

 民族の近代化と独立のための人材の育成(高等教育の充実)
 民族の富強をはかるための近代的工業の発展
 広く一般の人々の教育と文化の向上のため、新聞による啓蒙と大衆教育。さらに月刊誌の発行(「新東亜」、「新家庭」など)

金性洙は宋鎮禹と共に東京に留学し、積極的に多くの友人と交わった。彼の活動で印象に残るのは、多くの友人と接触しながら謙虚に相手の優れた点に学び、それを心に止めておき、自らの事業の発展に応じて友人の中から適材を適所に選び、活動する機会と場所を与え、それらの人々に光が当たるようにはかり、自らは出来うる限り前に出ようとするのを控えようとしたことである。彼は次のように言ったことがある。「天性的に私は何かをする時、側面から誰かを助けるのを好しとして、私が直接先頭に立とうとは思いません。」社会的活動において自分一人では、出来ることはあまりにも少ないということを良く知っていたように思われる。したがって彼に信頼された友人は、全力を尽くしてその事業を助けようと努力し、結果として、彼の多方面の事業は実を結ぶことになった。

金性洙の教育事業

早稲田大学の卒業を間近にして、彼は自ら未来について考えねばならなかった。まず母国の近代化に寄与するため、近代的教育機関である学校を設立せねばならないが、そのため二人の父親に援助を願わねばならず、父親に日本の近代化の成果を見てもらうことが先決条件だと考え、早稲田大学創立30周年記念行事が計画されている機会をとらえて日本に来てもらうことにしたのである。

1913年10月のことである。そして20日間、日本の都市の発展と早稲田大学の行事などを直接参観するようにしたのであった。二人の父は、とくに早稲田大学の大規模な行事に感銘を受け、ついに父親たちは両班の服装に冠さえかむって参加し、自らだけでなく、参加した人々にも多くの感銘を与えたのであった。

父親たちが帰国する前日、彼は二人の前で卒業後は、まず教育事業に献身したいこと、そのための財政的援助を願ったのであった。そして自分は日本に好意を持つのではなく、わが国が日本の束縛から抜け出すためには、日本の教育制度から学ばねばならないと、強調したのである。それに対して家長の金棋中は「まことに遠い道を行かねばならないなあ」と嘆息したものの、援助を確約したわけではなかった。

1914年、故郷に帰ると、中央学校から財政援助をしてくれないかとの要請が来た。1910年、いくつかの学会が統合して運営している伝統のある学校である。

金性洙は、この学校のこれまでの実績、現在の状況、今後の見通しなどを深く考え、この学校を引き取ることを決意し、二人の父親を説得して援助を得ることが出来た。

次は総督府の認可を得なければならない。彼らのさまざまな妨害や侮辱に堪えながら明確な計画と忍耐強さを持って交渉する金性洙に対して、係官は次第に敬意を持って、「金君」をやめ「金先生」と呼ぶようになった。教育事業に対し熱い情熱を持ちながら、彼は一方では運営に関しては冷徹な現実主義でもあったのである。「外柔内剛」という言葉があるが、まさにこの言葉の適例者が彼であった。

東京の朝鮮人留学生の集い後に撮った団体写真。太極模様の旗を掲げている少年が金性洙

やっと認可を得た彼は、教授陣として東京に留学して来た優秀な人々を迎え入れ、さらに学校も交通の便の良い昌徳宮の西側の桂洞にかなり広い敷地をさがし、新校舎を建設した。学校の建学の目標を示す校旨(校訓)として、彼は次の六字を選んだ。

雄遠、勇堅、誠信。──学生たちは志をおおしく遠大に持ち、新しい地平を開拓するために学び、理想の追求に勇敢に立ち向かうため体をきたえること、誠実で高潔な姿勢と道徳性を持って国民に奉仕すること、これである。

これらの方針は後日、普成専門学校の設立にも確認されたのである。

中央学校が名門と認められるようになると、1918年、金性洙は校長職を親友の宋鎮禹にまかせ、自らは新しい仕事の開拓に取りかかるのであった。

次第に母国語の教育が抑圧されて行く中で、中央学校では、英語や体育は母国語を用い、民族性の涵養に最大限の努力を払ったのである。

普成専門学校新築工事現場視察 1934

1923年、東亜日報を通じて「民立大学設立運動」を展開した金性洙は1932年3月、普成専門学校を引き受け校長となった。こうして1905年創立以来、経営難に陥っていた同校は、彼の財政的な土台によって専門学校としての体制を整え、これを土台として1946年高麗大学校(政治、経商、文理の単科大学)として綜合大学となって行くのである(初代総長は玄相允)。1963年、理・工大学を新設、1971年には医科大学と付属病院も備えることになった。

普成専門学校校長時代

設立当時の「普成」というのは、広く人間の本性を開発し、人間性を実現させようという理念を含むものであったが、元々人材を育成して主権を回復し、独立国家を確立しようという、教育による救国と自主独立を目ざす民族共通の理念が底辺に横たわっているといえよう。また、高麗という名称はわが民族の最初の統一国家の国号であることを忘れてはならない。

普成専門学校校長時代の金性洙

京城紡織の設立

1919年3月に朝鮮全国で展開された3・1独立運動は、その目標は達成されなかったとはいえ、日帝に大きな打撃を与え、朝鮮人民には自身の持つ大きな潜在力を自覚させたのである。

その後、日本はそれまでの暴力のみによる弾圧政策から、いっそう巧妙な「文化政策」に転換すると称して民族資本による会社設立の統制をやや緩和させたり、言論に対する統制をゆるめる一環としてハングルによる新聞の発刊も許されることになった。こうして後述する金性洙による「東亜日報」社の設立や、「朝鮮日報」、「時代日報」などの発刊が可能となったのである。

一方、経済的には朝鮮に産出する各種の資源の収奪は激しくなり、また日本から移出される各種の商品によって、従来の小規模な手工業による産業は壊滅的な打撃を受けることになった。

例えば、日本の食糧不足を補うために、大量の米が日本に移され、日本人は山間の住民も米を常食とするようになったが、また、日本からもたらされる日本産やイギリス産の安い木綿により、従来の朝鮮国内の手工業的織物業は滅び、朝鮮は日本の繊維製品市場となってしまったのである。

衣類や織物が、日本からの主要な輸入品だと知った金性洙は、産業の活性化のために、紡織産業から始めねばならないと考えた。これは誠に当を得た考えであって、歴史的にも古い封建社会から近代資本主義社会へ転換する時、洋の東西を問わず、かならず紡織部門、衣料繊維部分の近代的工業化から始められていることが明らかにされている。

京城紡織

このような歴史的事実をふまえる時、金性洙が、東京留学の時から知っており、また中央学校で物理と数学を教えていた李康賢に出会ったことは、まことに奇遇といおうか、金性洙にとっても大きな幸運であったといえよう。それは李康賢が日本の蔵前高等工業学校を卒業した、当時、わが国でただ一人の紡織技術の専門家であったからである。

(注)李康賢(1888-1976)

わが国最初の紡織技術者。ソウル出身。日本の蔵前高等工業学校・紡織科を卒業して帰国、その後60年間、紡織技術の啓蒙とその発展に寄与した。1915年より中央学校で物理と数学を教える一方、京城商工会議所が出版する 『商工月報』の「工業須知欄」に毎号、「工業と原動力」、「染色論」などを寄稿し、商工知識の普及に努めた。
さらに中央学校の校主であった金性洙に京城織紐株式会社の買取りを奨め、最新式の織機を使用して生産する綿紡績工業の始まりとなった。1919年に設立された、京城紡織株式会社の大規模工場建設の技術分野を担当し、1923年4月、最初の製品「太極星」(綿布の商標)の生産に決定的な役割を果した。韓国技術総協会会長を勤め、繊維工業発展に寄与した先覚者である。

この李康賢という人材を得たことで、金性洙の紡織工場建設は、急速に具体化を見ることになるのであるが、その前に金性洙には、試走段階ともいえる時期があった。

それは1917年、金性洙による京城織紐会社の入手であった。1910年に設立された京城織紐は韓国最初の18名の出資者による紡績会社であったが、150名の労働者を雇用して韓服の装身具やパジの裾ひも、靴下などを生産していたものの、機械化が遅れ、肉体労働による古い生産方式が多く残り、前近代的性格を多分に持っており、韓服の需要の減退と共に1917年には殆んど破産に直面していた。

金性洙はこの工場を引き継ぐと、織紐の生産を中止し、日本より豊田織機を40台導入して綿布の生産を始めたのである。工場の名称も中央商工株式会社と改めた。

当時の国内の市場の状況を見ると、京城織紐が設立された1910年には、すでに朝鮮に輸入される綿布は日本産が63%、英国産が37%を占めていたが、1914年には、日本より輸入される綿布が市場の97%を占め、1918年には、99.4%を占めることになった。これは日本産の綿布による市場の完全支配と、従来手工業的に生産されていた朝鮮国内の綿布の生産が殆んど全滅したことを意味している。

京城紡織工場

しかし、質の良い衣料品に対する需要は高まるばかりであるし、今後、人口が増加していけば紡織工業の前途は明るいはずだと金性洙は考えたのである。彼は1919年8月、「京城紡績株式会社」を設立する。

彼は朝鮮総督府の後援と日本系の銀行の支援を受け、機械も日本の豊田の紡織機を導入し、広木(木綿の布)の原料である木綿の糸も大阪の八木商会から仕入れて高品質の綿布の生産をはかった。朝鮮唯一の「民族」資本による「朝鮮産」の綿布とはいうものの、低賃金の朝鮮人労働者によって生産されたことは確かではあるが、内実は以上のようなものであった。

生産を始めたものの、創設初期の京城紡織の業績は芳しいものではなかった。10年前に開設している日本企業の「東洋紡績」で生産された綿布が市場を支配していたし、さらにそれに遅れて参入して来た三井財閥系の「朝鮮紡績」も大量の綿布を市場に放出していたからである。

京城紡織で働く従業員

生産は次第に順調になって来たものの販路の開拓が至急の問題となってきた。金性洙とその弟で京都帝大の経済学部を卒業し、京城紡織の専務となっていた金ヨン洙をはじめとして会社の幹部たちは、何度も会議を開き、経営方針につき討議を重ね、次のような方針を立てたのである。

経営方針

 まだ3・1独立運動の熱気が残っている条件のもとで、人々の「民族意識」に訴えること。

 早くからキリスト教の影響を受け、民衆が開化しており、愛国心の強い関西、関北地方(平安道、慈江道および両江道、咸鏡北道)に販路の開拓をはかり、まず平壌と元山方面に宣伝を集中し、ひいては北部全域はもちろん満州全域に販路拡大をはかること。

 製品の商標(トレードマーク)として従来から使っていた京城織紐の三角マークを止め、特許局に、まず太極マークの申請をして許可を得て、次いで朝鮮八道を意味する八ツ星マークの許可を得た。そして、この二つを合わせて「太極星」の商標を「京城紡織」の商標としたのであった。

 さらに 「東亜日報」が展開している「物産奨励運動」のスローガンである「着よう、朝鮮人の織った物を。食べよう、同胞の作ったものを。使おう、われわれの生産物を」に歩調を合わせ、「朝鮮人は、同胞の織った綿布を使おう」と宣伝を展開すること。

京紡製品の商標

このようにして、京城紡織と東亜日報は協力して、大きな成果を上げていったけれども、物産奨励運動に参加した各地方の土産品─例えば、慶尚道安東の葛布(カルポ)、忠清道韓山の細苧麻(セモシ─織り目の細いカラムシ)、江原道鉄原の綿紬(ミョンジュ)などは、太極星マークの綿布に圧迫され、次第に影がうすくなって行くのである。

1924年より太極星マークの綿布は好調の売れ行きを示し、京城紡織の年間生産量の6万疋(ヒキ)を超過して6万2千疋を販売するにいたり、この会社は安定期を迎えることができた。さらにゴム製品を生産するゴム工業をはじめ、婦人用の舟型ゴム・シンの生産を始め、好評を得ていった。

また、資本金100万円で出発した京城紡織は資本金を1千万と増資し、南川、殷栗、平壌などに繰綿工場を新設して、これまで日本から調達してきた原糸を自社で生産できるようにし、経営基盤を固めたのである。

さらに金性洙、金ヨン洙兄弟は鉱業にも事業を拡大し、江陵の玉渓金鉱、公州の鶏竜金鉱を買い入れ、金の精錬を始めたし、製糸工場を設立して絹織物の生産を開始し、また大規模な干拓事業により咸平と高敞(コチャン)の海岸一帯の地に1千町歩以上の干拓地を開拓した。金ヨン洙は総督府の後援で満州にも進出していく。

こうして金氏一門は1930年代の後半には国内だけでも15万石の土地を持ち、それに満州での土地を合わせると、30万石の大富豪となったのである。

金氏一門がこのように短期間で巨富を積み上げることが出来たのは、斎藤実朝鮮総督府の庇護があったからだといわれる。これは斎藤のいわゆる「文化政策」の一環として「東亜日報」の創刊が可能になった時からだといわれるので、次項において、それを見ることにしよう。

ただ歴史的に見て、京城紡織は朝鮮最初の近代的紡織工場であって、製造業分野において朝鮮の近代化に大きく寄与した企業であったという歴史的事実は変わることはないであろう。

東亜日報「創刊号」

金性洙は早くから一貫して民族の覚醒のために、国文による新聞の発刊が必要だと考えていたが、3・1独立運動以前には、日帝の支配する植民地の情況の下では不可能と考えていたのである。ところが、3・1独立運動に発揮された民族の巨大な抵抗に驚いた支配者は、これまでの単純な弾圧のみの政策の拙劣さを改め、「文化政策」を唱えながら、いっそう巧妙な統治に変えようとしていた。

こうして国文(ハングル)による朝鮮人自体の新聞発刊の可能性が出てきたのである。当時、総督府が統制∙発刊していた「毎日新報」という新聞が存在していたが、それは朝鮮の人々に省みられることなく、一部の親日的な者たちにより購読されるばかりであった。そして、一般には新聞の必要は切実に感じられていたから、人々は、その要求を非公式の地下新聞に求めていたのである。当時、そのような新聞は30種類に近く、例えば「朝鮮独立新聞」は1919年3月1日号を1万部印刷したといわれる。

総督府は、これら多数の新聞を統制∙弾圧する労を省くためにも、いくつかの朝鮮人による新聞を許可しようとしたのである。

新任の朝鮮総督(斎藤実)は人々の注目する中で、1919年10月に、この方針を明らかにしたのであったが、この方針を最も切実に待っていたのは、朝鮮の言論人の長老ともいうべき柳瑾や李相協などの人々であった。

これらの人々は、教育は朝鮮の近代化に必要なものであるが、新聞もまた教育に劣らず民衆教育に重要だと考え、金性洙に何度も重ねて説得したのであった。金性洙も新聞発刊の事業が重要なことは知ってはいたが、企業家として当時の人々の民度と、その収益性を考える時、ためらいの気持を抑えることができなかった。

金性洙はついに人々の説得と期待の中で、新聞社も京城紡織と同様に株式会社の方式で発刊することにし、「東亜日報」(柳瑾の提案による)の創刊を決意し、さっそく、その株主となるべき人士を求めて全国巡回を始めたのである。

1920年1月6日、東亜日報は、朝鮮日報、時代日報と共に日刊新聞として総督府の設立許可を受けた。同年1月14日、発起人総会。つづいて同年2月1日、13道から集まった78名の発起人によって金性洙は代表に選出された。

資本金は100万円とし、株式は2万株、発起資本金は25万円。2万株の中、16500株は発起人が引受け、残りの株は一般人から公募することにした。

さらに創立株主会議で東亜日報社長としては、甲申政変や「漢城旬報」創刊以来の大物として有名な朴泳孝(1861-1939)を選出し、柳瑾や梁起鐸(1871-1938)のような言論界の長老を反日、独立の伝統を守るために顧問に選出したのであった。

もともと第1号を3・1独立運動を記念するため1920年3月1日にする予定であったが、財源不足のため遅れを生じ4月1日に創刊号を出したのであった。

1919年の旱魃のため、多くの株主が最初の納入金を納めることができず、金性洙の担保による借入金で第1号の発刊が可能になったという。社屋も1926年の建立までは旧中央学校の建物を使ったのであった。

東亜日報の創刊頃の金性洙

東亜日報の創刊号の「主旨を宣明する」を見よう。ここには「1年前の3・1運動の理想を引用した民族自決の原則を堂々と宣明し、かつ人間の平等とすべての極東国家の政治的権利意識が必要である」としている。これは金性洙の古い友人で主幹となった張徳秀(1895-1947)が書いたもの。東亜日報の使命として、民主主義の原則を主張し、文化的啓蒙の促進をはかろうとしたのであった。

ここには優れた執筆陣と記者たちが集まって来て、植民地の情況の下で、ここで働くことは、政治的な意識があり愛国的な青年にとって誇るべき経歴とされたのであった。そして何よりも皆が20代の青年たちであった。金性洙は28歳、主幹の張徳秀は25歳、編集局長の李相協は27歳、その他の中堅幹部たちも皆20代で、何かを仕遂げようとする熱意に燃えており、全国25か所の支局に勤務する74名の従業員も同様であった。

ところが総督府による認可の枠の緩和が、言論の自由を意味するものではなかった。

日帝は朝鮮「合併」の翌年、1911年8月、警視庁に特別高等課を設置、日本全国および朝鮮に対する弾圧を強化しはじめた。同時に「朝鮮教育令」を公布し、民族的な学校に対する弾圧を強化し始めたのである。

民族的新聞に対しては、彼らに気に入らない記事をのせた場合は「差し押さえ」、「停刊」、「罰金」、さらに記者を「拘束」するなど、あらゆる口実をもうけて制裁と監視を勝手に行い出したのである。

とくに東亜日報は若く民族的な熱意に燃える知識人たちが紙面を通して自身の多様な見解を読者に伝えようとしていたからである。これらの記事は「当局」を刺激して何らかの処置を取るようにさせたし、また他方では、伝統的(保守的)な考えを持つ同胞を激怒させることにもなった。

創刊号が出て半月もたたない4月15日、総督府は平壌での反日デモを報道したとの理由をつけ、東亜日報の販売と配布を初めて禁止したのであった。これ以後、東亜日報が長期の「停刊」を受ける1920年9月末までの6ヶ月間、日帝は記事の削除4回、新聞販売と配布禁止が1回であった。

高等警察の秘密記録を分析した研究によると、総督府傘下の警察は1920年から30年まで、東亜日報の記事を325回も差し押さえたというのである。

また、国内の同胞読者からの抗議も頭の痛いことであった。とくに伝統的な家父長的家族体制の害について6回にわたり記事としたことがあるが、これを始めた1920年5月4日、つまり創刊の後、1月後のことであるが、これは伝統的な儒教に対する攻撃であると各地の書院からの抗議が噴出し、総督府に新聞の停刊処置を要求し、かつ不買運動さえ起った。そればかりでなく、東亜日報の社長であった朴泳孝までも、社として謝罪文を出すべきだと主張し、これが編集会議で拒否されるや辞職書を提出して社長を退職する騒ぎとなった。

やむなく重役たちは金性洙に社長職につくよう頼み、7月1日、金性洙が社長となった。深刻なのは新聞社の財政状態であった。不景気のため資本金は予定のように集まらず、10万人の購読者の多くが60銭の購読料を払うことができず滞納となっており、かつ広告収入がまるで無いことであった。つまり、いまだ広告料を支払う企業や会社がいくつも無かったのである。

これに追い打ちをかけるように1921年9月、総督府は二つの理由をあげて「無期停刊」を命令したのである。第一は天皇家の三種の神器を偶像崇拝のように報道したというものであり、第二は英国がインドを植民地化したのと同様に、日本は朝鮮を植民地にしたのだと書いた、というのである。真実のままに書かれることを、彼らは最も恐れたのである。停刊処置は1921年1月10日までつづいた。

あれやこれやで、東亜日報の財政状態は最悪のままであった。これを救ってくれたのは、朝鮮王朝の官僚で「合併」後日本からの爵位授与を拒否した閔泳達が、当時としては大金の5千円を東亜日報に「投資」してくれたのである。こうして、新聞発行が可能となった。このような苦難のつづく中で、金性洙と親しく、以前から共に歩んできた宋鎮禹と玄相允が3∙1独立運動により1年半も未決囚として獄中にあったところ釈放されて帰ってきた。宋鎮禹は1921年9月から東亜日報社長となり、玄相允(1893-?)は1922年4月から中央学校の校長となって、金性洙を助けることになった。

京都での会議出席 左から2番目が宋鎮禹 1929

その後、宋鎮禹は社長として同胞により生産されたものを買おうという「物産奨励運動」、われわれの力によって「民立大学設立」を、という運動を展開するのだ。

それでは、1936年、第11回夏期のベルリン∙オリンピックにマラソンで優勝した孫基禎が優勝盃を受け取る時の写真を東亜日報が報じたのであるが、その胸にあった日章旗が抹殺されていて、大騒ぎになった事件があった。(写真)これは金性洙が指示し、当時、東亜日報は社を挙げて排日感情があったから、そうしたのだと言う人もおり、一時韓国の国民学校社会科の教科書にも、わが国の人々は日帝の時期、独立意識が強く日帝に対して、このように抵抗したのだと説明されたこともあったのであるが、その前後の事情を見ることにしよう。

ナチス・ドイツの独裁者として登場したヒトラーは、1936年のベルリン・オリンピックを、ナチス・ドイツの党と軍と国民の鋼鉄の団結を示す絶好の機会と見て、歴史的に類例のない大々的な準備を進め、用意周到な記録映画も準備しながら開催に臨んだのである。(映画「世紀の祭典」を参照されたし)

この大会に参加する日本の選手団の中には、マラソン選手として前評判の高い孫基禎と南スンヨン選手がいて、8月10日の結果は予想どおり孫基禎選手が1位、南選手が3位となったのである。国内のすべての新聞はいっせいにこの勝利を特筆大書して報道したが、残念なことに、その胸には鮮やかに日章旗が付けられていたのである。

実は、孫基禎の胸の日の丸を初めに抹殺したのは「朝鮮中央日報」であったといわれる。この新聞の発行人は愛国の熱気に燃える呂運亨である。志をまげ総督府の手先となってしまった崔麟などを紙面で激しく批判していた。8月13日「頭上に輝く月桂冠、オリンピック最高の栄誉の表彰を受けるわが孫選手」の記事と共に日本の「読売新聞」が送ってくれた孫選手の写真から胸の日の丸を抹消して掲載したのである。

孫基禎の二つの写真

ところが、この写真は検閲にかかることなく何日かが過ぎたのである。それより11日遅れて8月24日、東亜日報は夕刊に、朝日系の「週刊アサヒ・スポーツ」の孫選手の写真から日の丸を抹消して転載したのであった。これは体育部長であった李吉用が他の記者2人と相談してやったと言われている。「朝鮮中央日報」で問題にならなかったのに安心したかも知れない。

したがって、これは後日「東亜日報」が社をあげて行なった「抗日闘争」と宣伝する主張とは異なるものであろう。

何日か後、これが警察問題となり調査が始められると、朝鮮中央日報は刑の軽減をねらって担当者柳海鵬を自首させ、当局の処分のある時まで自主休刊に入るとしたのである。この時、当事者2名の拘束調査があっただけで、何の処分もなかった。ただ、この新聞は休刊にともなう経済問題を克服できず、そのまま廃刊となり、東亜日報の言い分を批判できないままとなった。

東亜日報に対して警察は関係者を拘束して1月余り調査の後、この事件に対する処罰法規がないということで釈放となった。何とでも罪名をつけて勝手に拘束してきた総督府の奇異とも言える処分であった。ただし期日を付けない休刊、担当者の解任という条件は付いていた。総督府はまだ「東亜日報」の利用価値を認めていたのだ。

金性洙も、当時、社長職にあった宋鎮禹も現場の担当者の行動には全く関知していなかったにも拘わらず、後になって、「あれはわが社の排日意識の現れだった」、「あれは薄れゆく民族意識を揺り覚ます警鐘ではなかったかと思う」(金性洙)とか「あれは私が体育部の李吉用を社長室に呼んで、孫選手の胸の日の丸は目障りだから取ってしまえと指示したのだ」(宋鎮禹)ということになってゆくのである。

朝鮮中央日報が廃刊となり、民族紙といわれるものは「東亜日報」と「朝鮮日報」だけになってしまったが、停刊9か月となった東亜日報の紙面はというと、それは次第に日本内地の新聞以上に「奴隷の言葉」が増えて「内鮮一致」、「国語(日本語)常用」、「皇民化運動促進」、「国民精神総動員」となって行き、ついに天皇を大元帥とする高度国防国家建設を目標とする国民総力聯盟が結成されるや、金性洙、金ヨン洙兄弟は、この団体の理事となり、金性洙は総務部企画委員となって実務を担当し、ついに1943年に入り、東亜日報を通じ、金性洙は「学徒よ、聖戦にいで立て。大義に死す時だ。皇民たる責務は大なり」(写真)と叫び、新聞面には「鮮血もて祖国を守ろう。志願兵制実施士気昂揚大会」などの大きな文字が踊るのである。この時期、弟の金ヨン洙は崔南善と共に東京の明治大学講堂で留学生たちを集め、同じ趣旨の講演をしたのは歴史に残る有名な事件であった。

金性洙の恥ずべき文章

当時の日本国内の朝日や読売も奴隷の言葉──いや、それを心から信じた記者もいたかも知れないが──で国民を誤った道に導き、アジアをはじめ多くの人々を悲惨な状態に陥れたが、植民地朝鮮にあっては、圧力と統制はさらに厳しく、新聞史に汚点を残したのである。さすがに、この時代の縮刷版は作られていないという。

もちろん新聞は、支配者の政策を宣伝し、支配階級の思想と文化を浸透させると共に、民族紙を名のる以上、人民大衆の政治、経済、社会や文化面での動静を伝え、その要求や願望を紙面に反映させなければならない。東亜日報は、その長い歴史の中で、日本の支配階級、朝鮮総督府とのきわどい緊張した綱引きの中で、4回の長期停刊、数百回の削除や没収を受けながら、妥協や諂いと共に、購読者である人民大衆の要望や願い、その闘いさえ紙面に反映せざるを得なかったし、その実績を通じて、人々の信頼と愛護を受けてきたのである。この新聞が民族文化の擁護と普及、近代から現代文明の伝達と浸透につくした役割を否定する人はいないはずである。それだけに日本の侵略戦争末期の狂態についての包括的な反省が必要であるし、それは同時に金性洙の生涯そのものに対する総括ともなるであろう。

東亜日報が困難な状況の中で発行をつづけて来たが、日本が1937年7月7日、盧溝橋で攻撃を発始するや、日本は中国と全面的な戦争に突入することになった。その年の12月、日本軍は南京を占領、中国人の軍人や婦女子数十万名を虐殺する暴行を行なった。

1938年2月、朝鮮人陸軍特別志願兵令を公布し、朝鮮人をも彼らの侵略戦争に動員を始める。その時、内鮮一体、朝鮮を含めて高度の戦争体制を作りあげるため、まず障害物になるのは東亜日報、朝鮮日報などの「民族紙」であった。

総督府は1940年2月11日(強制的に創氏改名を開始する日)を期して自発的廃刊を勧告する。

これが拒否されるや、次にはすべての設備を買い上げ、社員の1年間の給料を保障するが、どうか。さらにこれも拒否されると、彼らは幹部たちが朝鮮独立を企画し、秘密組織を結成し謀議を重ね、全国に散在する800の東亜日報支局は秘密組織の支部となっており、上海にある臨時政府に基金を送る準備をしていると称して、幹部たちを全て検挙する暴挙を敢行した。ついに東亜日報は1940年8月10日、6819号をもって廃刊となったのである。

朝鮮日報も時を同じくして廃刊となった。

わが人民にとって暗黒の日々がつづくが、やがて日本の敗戦、「解放」を迎えた東亜日報関係者は再刊のため、あらゆる物の不足を補いながら猛烈な活動を開始して、戦後3ヶ月半となる1945年12月1日を期して再刊に漕ぎつけることができた。

解放後の政治活動

多くの災害と悲劇をもたらした日帝による朝鮮の植民地化と、彼らによるアジア・太平洋戦争は、平和と民主主義の回復のために戦った連合諸国と世界の人民の闘いによって日本の敗戦となり、朝鮮人民は「解放」を迎えることが出来た。

ただしソ連軍と米軍による日本軍の武装解除の地域分担のための38度線は、朝鮮の南部に進駐∙占領して軍政を実施したアメリカ占領軍によって南北を分断する国境のように扱われ、朝鮮の分断状態は固定化して行くのである。

国内と国外の広範な人士が参加して組織した建国準備委員会を母体とした「朝鮮人民共和国」は、日帝と民族反逆者の財産を没収し、重要生産機関を国有化し、没収した土地を農民に無償分配することを施政方針として提示し、当面の民衆の政治、経済的要求を積極的に反映したのであった。しかしながら、米軍政はこの人民の一致した要求を無視、否定して南部朝鮮に反共基地を構築する目的のもと、民族反逆者、親日分子、日本警察に奉仕した者たちを寄せ集めて米軍政を強化して行き、人々の統一した臨時政府樹立のための左右合作運動(1946年)や南北協商運動(1948年)などを妨害し、ついに左右合作運動の左翼中心人物であった呂運亨の暗殺、アメリカによるモスクワ3相会議の決定破棄など、情勢は暗転をつづけ、南では1948年、アメリカのカイライである李承晩政権の樹立となり、北では朝鮮民主主義人民共和国の樹立となって、分断は固定化されるのである。

さて、金性洙であるが、米軍による南半部占領によって、戦争末期の東亜日報の侵略戦争への協力ー「学徒よ聖戦にいで立て。大義に死す時だ。皇民たる責務は大なり」などの露骨な親日行為の責任は問われぬままに曖昧となり、南半部の情勢の混乱は、次第に金性洙を政治の世界に参与させていくのである。

金性洙は反共の保守的民族主義者として、穏健な保守勢力の大同団結によって新国家建設をはかり、1945年9月、共通の保守性を持つ4つの党派が韓国民主党(韓民党)を結成する。領袖として李承晩、金九、李始栄の名をかかげているが、彼らは誰も帰国しておらず、主席総務となったのは宋鎮禹で、その背後には金性洙がいるのは周知のことであり、金性洙が実質上の党首と考えられていた。

李承晩は10月16日帰国、金九ら臨時政府の要人は11月23日帰国。彼らの帰国は政情をいっそう複雑にするばかりであった。

談笑する金性洙と李承晩

この情勢の下で、1945年12月、モスクワで開かれた米、ソ、英の3国外相会談で朝鮮問題解決の方案として「朝鮮を5年間、国際連合の信託統治理事会にゆだねる」(独立はその後に考慮する)という方針が決定されたのである。その時、わが国の民衆の共通の感情として、「5千年の文化を誇る民族に何という決定であろうか」という屈辱感であった。民衆はいっせいに反対の声をあげたが、まもなく左派はソ連の方針であるからと、賛成にまわり、事態はさらに複雑になった。

韓民党の宋鎮禹も当然「反託」の立場であったが、彼は米軍政との対決は避け、あくまで合法的手段で反対すべきだと主張する。これが誤解をまねいたのか、彼は「反託」の方法をめぐる激論の後、早朝、帰宅した直後の12月30日、何者かに暗殺されるのである。

金性洙は右手ともいうべき宋鎮禹を失ったことは大きな痛手であった。彼はまず宋鎮禹が社長をしていた東亜日報の社長とならねばならなかったし、韓民党では党首ともいうべき宋鎮禹の後を継ぐのは金性洙のみであると、何度も拒絶された後、ついに彼を責任者に押し上げたのである。弟のヨン洙も財政上の援助を承認してくれた。ただし、これに伴って長く情熱を注いできた普成専門学校の校長は辞任せざるをえなかったのである。1946年2月19日のことであった。

金性洙と李承晩

その後、さまざまな経緯は省略せねばならないが、はじめ金性洙は李承晩と力を合わせ資本主義国家の建設に力を尽くそうと考えていたのであるが、李承晩の一人独裁権力が長く続く中で、民主主義が失われ、人民に対する弾圧が強化されるのを見て、李承晩に対する批判を強めて行く。

この間に民族的な悲劇である朝鮮戦争もあったが、この悲劇を乗り越え、南北共に為すべきことはあまりに膨大であった。

国務会議での副統領就任挨拶 1951

金性洙は1951年5月、李承晩政権のもとで、「副統領」(大統領の有事の時の後任となる)に選出された。しかしながら、金性洙は激しい李承晩批判の文書を提出して、これを辞任(1952年5月29日)。金性洙は反李承晩のための新党を構想したが、病を克服することは出来ず1955年2月18日に死亡した。

人間として、ある一つの線を貫いた一生であった。

謙虚で信義を重んじ、謀略を好まず、人間性が善良であるとは、人々の一致した評価であるが、それと共に彼の一生は目標を目指してその達成のための闘いと抵抗の一生であったともいえるのである。彼の座右銘は「公先私後」であったという。

〈科学と未来〉から抜粋

1 COMMENT

イケメン~

青年時代の写真の顔つき、イケメンですね~👍
しかし、昔の秀才たちは、早稲田大学にゆかりがありますね~😁よほど優秀なんでしょうね~🙌 しかも、ここでも留学同が活躍するし~😊
で、商才があったんだろうけど、李承晩と接点があったんですね~💦悪い人じゃないでしょう?💦 政治とカネって💦

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