春のうららかさを感じよう

写真で見る在日⑰-帰国事業

差別と貧困に絶望した在日コリアンが希望をみつけたのが朝鮮民主主義人民共和国であった。

帰国者歓送会(秋田県)
帰国する友人たちと(愛知朝鮮中高級学校 1960年9月)

社会主義建設に参加しようとの北の呼びかけと総聯が繰り広げた「地上の楽園」という宣伝は多くの在日を惑わせた。

在日朝鮮人を厄介者と認識していた日本政府は、朝鮮人が帰国したいとの願いを絶好の機会として「帰国事業」に人道の形容詞を付した。

線路に座り込む民団員たち(1959年)
北送反対闘争を繰り広げる民団員(1959年)

一方、体のいい追放策とみた民団は線路を枕に列車を阻止する反対をした。日本政府が負担したのは新潟までの旅費と意思確認という儀式に必要な3泊の宿泊費のみであった。

新潟での3日間を過ごす帰国者たち(1959年)
写真集「帰国・北帰行」から
写真集「帰国・北帰行」から
写真集「帰国・北帰行」から
写真集「帰国・北帰行」から
写真集「帰国・北帰行」から

1959年12月1日、第1次船が新潟港を出港。1967年まで8万8600余名が帰国。1971年5月に再開し、1984年まで4700余名が帰国。計9万3300余名が帰国した。この帰国事業は当時「民族の大移動」ともいわれた。

新潟港歓送迎の様子(1960年代)
写真集「帰国・北帰行」から
写真集「帰国・北帰行」から

彼ら彼女らはこれが片道切符しか持たない追放とは知らなかった。あれから60年の歳月が流れたが、彼ら彼女らのうち、日本を再訪した人は微々たる数で、無に等しいといえる。

写真集「帰国・北帰行」から
帰国事業再開後見送る同胞(1971年)
帰国事業再開後帰国する同胞(1971年)

在日朝鮮人は、日本・南・北と分断家族となった。巷間の「脱北者問題」はその後遺症であり、歴史的反省に立つ人道支援が望まれる。

2 COMMENTS

男はつらいよ

5人兄妹の長女が私が6年生の時に우리나라に귀국しました。新潟まで만경봉호を見送り😂21歳の時に원산の姉さんの家に泊まりにいきました😃 今は귀국자どうしで結婚🤵‍♂️👰‍♀️して、子供3人孫4人で幸せ❓に暮らしています🚢

マンギョンボン

「地上の楽園」「ゴミ一つ落ちていない国」などと扇動されたら、極貧の同胞は飛びつきますよね~ ましてや祖国😘
幸いと言うかなんというか、私の6人兄弟は帰国せずに日本にいます😊
「帰国事業」は良かったのか、そうでなかったのかは、私には断言できませんが、せめて再会できるようにしてほしかったな~😢 私も20代に祖国訪問した際に、원산にいる親戚に会って、抱き着いきながら大泣きしました😢その「涙」の意味は???

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