学校閉鎖後、教員たちと学生たちは野外教室を設置し、民族教育のともしびを消さないよう闘います。
文部省が出した指示は公立学校への移行で東京都内の15ヶ所の朝鮮人学校は都立学校として存続し日本の教育内容に沿って教育するという措置がとられ西東京のウリハッキョも1949年12月に「東京都立第11朝鮮人学校」になりました。
当時の学生数は125人、学級数は3、教員数8名、用務員3人、ここに日本人3名が補充されました。
学校閉鎖後、教員たちと学生たちは野外教室を設置し、民族教育のともしびを消さないよう闘います。
文部省が出した指示は公立学校への移行で東京都内の15ヶ所の朝鮮人学校は都立学校として存続し日本の教育内容に沿って教育するという措置がとられ西東京のウリハッキョも1949年12月に「東京都立第11朝鮮人学校」になりました。
当時の学生数は125人、学級数は3、教員数8名、用務員3人、ここに日本人3名が補充されました。